S12久川摩耶

「えぇっ!別れた…って、だって、あれから一ヶ月も経ってないのに!?」
 すっとんきょうな声を上げて、はたと気づいた久川は慌てて周囲を見回す。
 平日の昼下がり、独り身の会社員が多いといわれる久川たちが住んでいたマンションの前には人っ子ひとりいない。
 内心胸をなでおろしつつ、これでは近所のおばさん連中と同じだと苦笑する。

「仕方がないよ。逆にあたしは尾野君と付き合うって言い出した江藤さんに驚いたけどね」
 一般の中型二輪より一回り大きい黒い愛車を押しながら吉巳は応えた。

 青木宅の一件は表沙汰にならなかった。当事者3人が事件を伏せておきたいと言い出したからだ。
 形はどうあれ殺人未遂。れっきとした犯罪である。だが、学校というコミュニティでは必ずしも通用するわけではない。
 青木雅美などはまっさきに賛成した。こういう目立ち方は今後の学校生活に悪影響しか与えないからだ。
 以来、彼女は何事もなかったように過ごしている。ああいった体験はトラウマになったりするものだが、彼女にそういった心配はいらないようだ。吉巳にかみつく姿を思い出した久川は苦笑ながらに納得した。
 大きな変化が現れたのは残りの二人だ。
 尾野は日を追うごとに明るく社交的になっていった。
 江藤という存在が、誰にも相手にされないと思い込んでいた自分への自信につながったのだろうし、当然の変化だといえた。尾野いじめをやめ、派手な振る舞いも控えるようになった江藤も然りだ。

 告白したのは尾野からだという。
 誰でも一度は経験したことのあるすれ違い。往々にしてそのままで終わることが多い、この年頃の恋だから二人は幸運とも言えた。
 結局のところ、二人の仲を取り持つような立場になってしまった久川は吉巳からそのことを聞いて素直に喜んだ。
 ――なのに、
「なんで?」
「青木さんがあんな事言わなければね」
 久川の視線に振り向くことなく応えると、「本当は言いたくなかったんだ」と、愚痴るように付け加えた。
 ますます解らない。なぜここで青木雅美の名前が出るのか。

 当惑している久川をよそに、エントランスでバイクを止めると吉巳はキーをひねった。
 猛々しいうなりと共にバイクが息を吹き返す。
 何度かアクセルを開いて、めいっぱい空気を注いでやる。
 アイドリングが安定するのを見計らってアクセルから手を離した吉巳は、ようやくこちらを向いた。

「テストの結果出てるんでしょ、どうだった?」
 何か答えが返ってくるものと期待していたのに、肩すかしを食らう。でも一見関係のない話題を本題につなげるのは吉巳のパターンである。
 久川は素直に答えることにした。
「元々いじめられっ子だったっていうから後天的なものだと思うけど、確かに尾野君には被虐嗜好の傾向があったわ」
 サイドスタンドを下ろしたバイクに腰を預けた吉巳は腕を組み、片眉を上げる。
「だけ?」
「うん、他にも何人かいたけど、みんな一般レベル。でも彼の偏り具合だって軽いものだから、ブラックリスト扱いするほどでもないわ」
 吉巳は小首を傾けると小さく笑う。
「うーん、60点」
「なによ、それ」
「青木さんちのドタバタが起こる前までの江藤さんと尾野君の関係は、あれはあれで良好な関係と言えたんだ」

 一瞬、あっけに取られる。
 被虐嗜好者がイジメを受けるという点では少なくとも本人は不幸ではなかっただろう。でも、良好な関係というのは、互いに利害が一致しているということだ。
 久川は頭を振った。
「こらこら、とつぜん何言い出すのよ」
「センセェがさ、あたしを引き取ったのは、あたしの鼻が使えるからじゃなかったっけ?」
 ときおり、吉巳はストレートに物を言う。悪意がないのはわかっている、というより本人は気づいてすらいないのだろうが、久川は少し胸が痛んだ。
 確かに彼女の嗅覚は、性格診断テストやDSM−Wなど比べ物にならない精度を持っている。

「で、でも自分で言ってたじゃない、『苦しかったのは江藤さんの方だ』って」
「だったら、イジメ役は他人に任せておけばよかったんだよ。自分から手を下す理由なんて無いだろ?」
 いくら相手が『そうされるのを好む』性格だったとしても、好きな相手に暴力を振るうなんて簡単にはできない。
 それが出来るということは彼女も、また。

「だとしても、二人が別れる理由にはならないでしょ」
「なるよ。さっき言ったよね、二人はいままで良好な関係だったって、虐めて虐められるのが二人にとって普通なんだ」
 久川は言葉が出ない。続きの言葉を待つ自分に気が付く。これではまるでデキの悪い生徒のようだ。

「センセはまだ理屈だけでしか理解してないね。そういう方法でしか他者とコミュニケーションできないような人間を研究してるんだろう?」
 おおざっぱな言い方であるが、間違ってはいない。調査員として派遣されている身ではあるが、そういう野心がなくなったわけでもない。

「彼女さ、薄々気付いてたんだよ。自分は普通じゃないんじゃないかって。で、青木さんちの一件で確信させられた。…本当は言いたくなかったんだ、あんなこと」
 さっき青木雅美の名前が出た理由がようやくわかった。彼女が尾野輝一を罵倒した後の展開に後悔しているのだ。

「江藤さんは勘がいいから、さらにその先に気付いてしまった。嗜好は違うけど、本質的に自分は尾野君と同じ種類の人間なんだって」
 視線を落して吉巳は続ける。
「彼女言ってたよ。もしかしたら尾野君と立場が入れ替わってたかもしれないって。いまはそんな自分が怖いってさ」
 久川は「…そう」とだけ答えて、タバコに火を付けた。

END
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