S11久川摩耶

 江藤圭子の身体が崩れ落ちる。
 頭の先からつり上げられたように一瞬硬直した尾野輝一は、顔面を涙と鼻水でクシャクシャにして、彼もまた崩れるように座り込んだ。

「センセェさ」
 久川女医に向き直った吉巳は、真剣とも冗談ともとれる口調で続けた。
「タイミング悪すぎ」
「う、ごめん」
 ここは素直に謝るしかない。順調に進んでいた吉巳の交渉を台無しにしたのは自分だ。しかしその後の展開がどうにも納得できない。
 なぜ、うまくいったのか。
「でも、なんで…」
「それと、青木さん」
 久川を無視して、吉巳はスルスルと前に出ると、座り込んで呆然としている尾野の横にしゃがみ込む。

「人を殺そうって決意したヤツは、社会のルールとか道徳なんかとは、とっくに決別してるんだよ。そんなヤツにまともなこと言っても、なにも好転しない。どっちかってと、感情に訴え掛けたほうがいい」
 拾い上げたカッターナイフの刃をチキチキ鳴らしながら引っ込めてポケットにしまい込む。

「ま、こういうことは、もうないだろうから覚えておかなくていいけど」
 立ち上がると吉巳は青木雅美に顔を向けてニヤリと笑ってみせた。

 久川が乱入してからの吉巳の態度はまさにソレだった。
 江藤圭子を人質にとったのも、たまたまそこにいたからにすぎない。
 要は、自分がやろうとしていることが人の命を危うくするという危機感を尾野輝一に与えたかっただけなのだ。
 この場合、尾野輝一が青木雅美を殺そうとしている事とはまったく関係がない。尾野輝一が覚悟したのは青木雅美を殺すことであって、他の人間は対象ではないからだ。
 そういった主観的な価値観は往々にしてある。それを利用した、ごく基本的な交渉術であるが、相手を冷静にさせず畳みかけないと簡単に失敗してしまう。
 吉巳はうまくやっていた。

 それらを台無しにした青木雅美はまだ怒っていた。吉巳を睨み返している。

「自分から人殺しといて、わけわかんないわ」
 元々怒りをぶつけるべき尾野輝一は、彼こそ亡骸となったように、倒れる江藤圭子を見つめている。
 行き場を失った怒りは、どういうわけか吉巳に向けられたようだ。今までのいきさつを見ておきながら吉巳につっかかれる彼女の攻撃性に久川は感心した。

「今はやってないよ」
 吉巳はさらりとかわした。
 唐突に尾野輝一が声をあげた。立ち上がるのももどかしいらしく、四つんばで江藤圭子に近づく。
 どうやら起きたらしい。

 のそりと起きあがった江藤圭子は、朦朧としながらゆっくり首を巡らす。彼女が、「落されて」倒れたことに気付くにはもう少しかかりそうだ。
 そんな江藤にどう対応してよいのかわからないらしく、尾野輝一は触れることすらできないで、心配そうにオロオロしている。
 けれど、彼の顔は心底喜んでいるように見えた。

「これってもしかして」
「言ったろ。仕事にはならないって」
 少し呆れ気味に応えた吉巳は久川の前を通りすぎる。

「気になる相手にイタズラして気を引こうっていう…」
 久川の独り言に吉巳は追い打ちをかけた。
「さ、帰ろ」


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