第1話 20ダースの犬
闇。 つらつらと連なる街灯の心もとない灯火だけがその闇の世界が街中であると認識させる。 ふと、2つ先の街灯に女性の姿が照らし出されて、すぐに消える。 ほとんど意味を成していない、あるいは露出することに意味があるであろう、タイトスカートから延びた白い脚が、必要以上に開いた肩口から見える白いうなじが、闇夜に浮かび上がるように照らし出されていた。 間を置かず、もう1つ先の街灯下にその女性が現われる。右手を耳にあてている。恐らく携帯電話を使っているのであろう。 派出目な衣装に、本人は意識していないだろうが、その挙動一つ一つに、男を惑わす「色」が含まれているあたり、仕事帰りの「夜の蝶」といったところだろうか。事実、その映像の右下には「1999/05/02 02:35」と表示されている。この時刻が録画された時間であるならば、先程の推測もアテ外れではないだろう。 映像がゆっくりと動き出した。だが、それは加速度的に速さを増し、街灯を次々と通り抜けて行く。おそらく、その映像は解像度の低さから見て家庭用ビデオカメラによるものだと推測されるが、一般的な大人であれば、ダッシュに近い速度になっている今ですら、上下のブレは発生していない。 カメラは確実に先程の女性へ向かっていた。かなり近づいているせいか、ハイヒールがアスファルトを叩く、規則正しい音と携帯電話に向かって談笑する声が聞こえる。 そしてまた、1つ先の灯かりに女性が照らし出される。それと同時にハイヒールの音に混じって、荒い呼吸音がノイズのように聞こえ始めた。男性の声だ。 その呼吸音も女性に近づくにつれ、リズムを増し、獣じみたものへと変貌していった。 女性が街灯を通り抜ける。カメラも街灯を外れ、暗闇につつまれた後、突然、視界が明るくなった。目の前に先程からの背中がくっきりと映し出されている。同じ街灯の中、手を伸ばせば届く距離である。すでにヒールの音は無くなっていて、男の呼吸音だけが聞こえる。 彼女は電話の相手にカラカラと乾いた笑いを飛ばしながら後ろを振り向いた。まったく無警戒な、なにげない仕種。 突然映像がブラックアウトし、狭い室内に悲鳴だけが聞こえた。 「これが昨晩、もとい、今朝、被害にあった新庄栄子さん26才の犯行再現VTRです」 「猟奇的な」 「防犯課の仕事じゃないのかね?」 「この忙しい時期にこれ以上は困りますよ。ウチは」 マイクを通した青年らしき声の解説が終わると同時に闇の中で年配男性がやりとりを始め、室内は一挙にざわめきはじめた。 「しつも〜ん」 それらのざわめきとは全く異なった若い男の声が遠くから投げかけるように発せられた。 「資料には、『目撃者無し』とありますがぁ、今の再現VTRというのは?」 「もしかして、え〜と、新庄、栄子さん?目覚められたんですか?」 質問の最後の部分でざわめきが一瞬にして消えた。答えを待つ静寂に闇が満たされる。 「ええー、未だ昏睡状態です」 「じゃ、」 男の問いかけを先程の年配男性の一人が継いだ。 「じゃ、今のはナンだね!?」 「脚色です。ウチの広報部が最近、大阪府警25時とかに凝ってまして」 臆面もなくマイクの青年が答えると、再び室内はざわめきに満たされた。 「余興かね?これは!」 年に一度の大イベントの最中、このような薄暗い部屋に押し込まれた彼らの怒りはもっともである。 「公務員をバカにしとるのか!」 「やれやれ」 先程、質問していた男はそれらのざわめきを遠くに聞きながらそう愚痴ると、パイプイスに座り、一気に姿勢を崩す。 「こりゃハズレかな」 そう呟いて、紙コップをたぐりよせると、中のコーヒーをすすった。えもいわれぬ渋味が口腔に広がる。 「こりゃハズレだ」 「次の映像です」 マイク越しの一言に、ざわめいていた室内がブーイングに変わる。もういいだの、灯かりをつけろだのとどやされる中、青年は続けた。 「場所は西鉄・大橋駅前、観光客が録画したものです」 次は本物の犯行現場を見る事ができる。その期待に室内は再び静寂につつまれた。 「お忙しいことで」 冷めたコーヒーをテーブルに戻しながら、皮肉っていた男のレイバンにプロジェクターの映像が反射する。 こんどは日中の映像だ。視界は明るく、見物客であろう人垣の向こうには、駅前広場を急遽改装した舞台の上で紅白の垂れ幕と提灯を背景にオバさん数名が松囃子にあわせて踊っている。 「博多どんたく」 前夜祭を含めると3日におよぶこの行事は、福岡市全体を会場とした大規模な祭典である。連日行われる「花自動車」なるパレードを中心に、各自治体が各所でそれこそ、ゲリラ的にイベントを展開している。 マイクの青年曰く、撮影者である観光客がカメラをパーンさせる。 5月に入ると、惜しまれつつも薄桃色に着飾ったあでやかな姿に幕をおろした桜が新たな息吹を枝のそこかしこに芽吹かせる。そんな新緑の兆しの元、様々に人々が往来する。 イカ焼き、わた飴などの露店に足を止める親子、春のなごやかな日差しのもと、片隅のベンチでパンフレット片手に次の目的地を吟味している若い男女、などなど。 カメラはゆっくりとその情景を写し出していた。 と、ふいに行楽の喧燥とは明らかに異なるざわめきが遠くに聞こえた。しかし、それはすぐさま小さくなってしまう。 カメラは一度停止し、気になったように、そのざわめきの方向、舞台に視界を向けた。 先程まで上機嫌で舞っていたオバさんの姿がない。否、オバさん数名が舞台の上で伏しているのだ。姿を消したように見えたのはカメラ前の観光客の後頭部のせいだ。その頭がフラフラとゆれてグッタリとした姿が見え隠れする。 だが、そういったアクシデントにつきものな群衆のざわめきがない。なにごともなかったように、いたって静寂だ。 いつのまにか、観光客の頭の揺れが大きく緩慢になっていた。そしてゆるゆると下がり、ついにはカメラからフェードアウトし、視界がパッと開ける。 ふらふらと、足元もおぼつかず、そのまま腰を落とす者、さらにうつぶせになる者。 祭の活気にこぎみよくざわめいていた風景が一転していた。 それらを写し出していたカメラも例外ではない。画面全体が揺れだすと、視界すらおぼつかなくなり、すぐさまブラックアウト。気が付けばカメラは傾いた地表を写していた。だれかが落としたサングラスの向こうに横たわった女性の背中がゆっくり上下しているのが見え、撮影者のものであろう、大きなイビキが聞こえた。 「ハイ!そこで停止」 「すみませんがサングラスの所、拡大していただけませんか」 突然の叫び声に周囲が硬直し、それを急かすように男の声が響く。 「画面右下あたりなんですけどね」 しばらくして、プロジェクターが動き出し、件のサングラスへ焦点が合わせられる。だがしかし、像がぼけてしまったので、今度はビデオカメラ自体の機能で拡大されてゆく。 サングラスは撮影者背後の風景を映し出していた。ただ、その像は湾曲して、上下がひっくり返っているが、そこに一人の男が立っているのがわかる。周囲は倒れた人ばかりなので余計に目立つ。 「なっ」 闇の中でうめき声が響く。 年齢は20台後半といったところだろうか、サングラスに隠されてその目は何を見ているかわからないが、真っ黒に日焼けした肌に「に゙っ」と笑った真っ白な歯とカークダグラスばりに割れた顎がインパクトを与える。 「なんだアレは!」 さけんで指した指が、プロジェクターに影を落とす。 ちょうど指先は件の男の裸の上半身、さらに下の黒い衣服を指していた。 「グラサンに海パンですか。この時期にはちと早いですかねぇ。競泳用パンツってトコがちょいと変態チックですが」 などという、呑気な感想をマイク越しに洩らした青年のとなりに、彼はすでにいた。先程から、妙な質問をしたり、映像拡大の指示を出していた男である。 「あんた、だれだ?」 暗がりであるが、目の前の男はスーツ姿にサングラスといういでたちであるのがわかる。自分が招いた中でこのような服装の者はいない。 「失礼、マイク借りますよ」 言いながら、名刺を差し出すと、男はマイクを受け取った。 「あ〜すみません。明かりつけてください」 ほどなく、蛍光灯がひらめき、その下に永らく暗闇になれていた目をしかめる10名弱のいかめしい面々が照らし出された。 皆一様に警視庁指定の礼服に身を包んだ彼ら、福岡県警刑事部・警備部・生活安全部の各部課長に加え、交通部の駐車対策課や鉄道警察などまで含めた、層々たる面子である。たとえ駐車違反1つ犯した事の無い清廉潔白な一市民でさえも、この面子の前に立たされては少なからずとも萎縮するだろう。 「え〜お忙しい中、お集まりいただいて大変恐縮です」 別に自分が集めたわけでもないのに、まったく恐縮せずに男は儀礼的に挨拶の言葉をならべる。先程の青年に変わって、見た事も無い、そのうえサングラスを掛けたまま挨拶を述べる壇上の無礼な男に県警トップ陣の視線はすぐさま敵意のこもったものとなった。 「現時点を持って、本件に関し、特例・甲38号が適用されました」 「…」 「なにー!」 礼服の一人が驚きとも叫びともつかぬ声を発して立ち上がった。 それに対してサングラスの男は口元をほころばせて、 「公安課の方かな、外事かな?まぁ、なじみのない特例なんで他の部署の方はピンとこないかもしれませんね」 そう言うと男は一息ついて、県警トップ陣の面々を一通り見回して言葉を続けた。 「まぁ、そういう事です」 男の顔には皮肉めいた笑みがはりついていた。 「どういう事かね?」 立ち上がった礼服とは別の礼服の一人が憮然とした態度で問う。この商売、ナメられたら終わりである。 「ちっちっち、だめです。あなた方は我々に行使する権利はありません。残されているのは、我々に従う義務だけです」 言葉とはうらはらに、その声音は冷淡で張りがあった。 無知なる虚勢が一蹴されてしまい、礼服の男は次の言葉がなかった。その沈黙と同時に、壇上の男から向かって反対側のドアが開き、黒スーツにサングラスという、いかにも怪しげな男数名が静かに室内に流れ込み、県警トップ陣を囲み込んだ。 「そのうち本庁から通達がくるでしょう。が、現場のほうはすぐに対応していただきます」 振り向いた男は、未だスクリーンにおぼろげに映し出されている、逆立ちした海パン男を指差して、 「この男、便宜上我々は『SS』(ダブリュエス)と呼称していますが、このSSに対する警察機構の行動一切は我々の指示、あるいは許可なしに行うことを禁じます」 「だぶりうえす?」 「最低限度の情報は後でこじらさないためにも必要ですね」 向き直った男は営業用スマイルを浮かべる。しかし、目の前のお歴々に対して本当に愛想を尽くしているのではない事は端から見ても明らかであった。どうやらこの男はそういった、けれんを含んだ態度を好むようだ。 「半年前に大阪で起こったある事件より、我々はSSを確認、以降追跡していました。」 「半年前?、大阪」 「!」 「環状線・無限ループ事件か!」 平日早朝にソレは起こった。 大阪駅東車両基地より8:05に発車した内回り普通車両、遅れて10分、大和路線より乗り入れた外回り快速車両が中央管制を無視、乗客を乗せたまま突如暴走した。 並走していた車両を他の線へ移し、2車両をすみやかに環状線内に密封したのはJR西日本の迅速な対応を評価しないといけないだろう。そのため、死傷者はホーム上のトラブルなど些末で事を納めた。 以降、送電線の停止やら、府警精鋭機動隊の活躍があった事はこの場では割愛する。 ともあれ、丸一日の主要交通機関の停止は大阪市内での経済活動の麻痺のみならず、1週間に渡って西日本各都市へ影響し、被害総額は数十億とも数百億ともいわれている。 「あの事件の原因は、SSを中心に半径100M内の生物を極度の睡眠状態に陥らせる特殊能力によるものと思われ、アレをテロ行為とみなした当局から我々にお呼びがかかったわけですなぁ」 「と、特殊能力?!」 礼服たちがざわついた。先程まで一人の男に圧倒されていたのを忘れたように疑惑の表情を見せる。その非現実的な単語に失笑するものさえいた。 「見たでしょ?」 周囲の反応をものともせず、男はさらりと言ってのける。 「さっきのビデオ」 その一言をきっかけに礼服の一人が口を開いた。 「我々はどうすればいいのかね」 周囲の礼服連中が一斉に中央の一人に振り向く、県警本部長である。そして、渋面から発せられたその言葉は警察機構が男一人に服従する事を意味していた。 「特にありません。通常の任務にお戻りください。追って連絡しますので」 飄々と答えると、男は右手を差し出して、 「では、ご退場ください。ご苦労様でした」 うやうやしく礼をすると、「あと、この会議室しばらく借りますんで」と笑顔で見送った。 と、退席する礼服の一人が入り口で立ち止まり、男に振り向いた。 「厚生省に君の親戚かなにかいたかな?」 男はその言葉にサングラスの位置を整えながら、「さぁ?」とだけ答えた。 「さて」 県警ご一行を見送った男は、一息つくと、もみ手ながらに周囲を見回す。周囲の黒服たちはあわただしく、なにやら器材などを運び込み始めていた。 室内が明るくなってわかったことだが、とっぱらわれたプロジェクターのスクリーン裏には「忠」の字が書された額縁が木目張りの壁に、うやうやしく飾り立てられている。中央には恐らく円形の会議机があったのであろう、福岡県警本部内では1、2を争う上等な会議室である事がわかる。 せわしなく動く黒服たちがその場に不似合いであるのも確かだが、それ以上に場違いな面々があった。ジーンズにTシャツ、膨らんだウェストポーチにはトンカチやら携帯電話を覗かせたその若者たちは一見すれば、どこかの大学の学祭委員のような風体であるが、皆白地に赤で「ZONDAG」と染め抜かれた羽織を纏っている。 事態の急転にオロオロする彼らの真ん中の一人が一歩前に出た。先程までこの場を仕切っていた青年である。さっき男からもらった名刺を手に、こちらを見ている。彼だけ一人落ち着き払った表情だ。 「責任者はキミかな?」 「福岡市民の祭り振興会実行委員長の神楽坂です」 「あー私は」 神楽坂と名乗った青年は、名刺に目を落としながらその言葉を遮った。 「内閣調査室の田中さんですね。まさか名刺なんて持ってるなんて思わなかったですケドね」 苦笑混じりの神楽坂の言葉を受けて田中はカラカラと笑い「よくいわれます」などとのたまった。 「最近やっと、ウチの総務がメールアドレスくれたんですよ。ポスペも入れたんで機会があったらメールください」 改めて再生紙で作られた紙切れを見直してみると、住所も電話番号も書かれていない表の片隅に、E−MAILアドレスだけでなく、ごていねいにICQのシリアル番号まで記されていた。 「では、行きますか。神楽坂クンには昼間の現場へ案内してもらいたいんですよ」 そういって歩き出した田中は、一人会議室出口手前まできて振り返ると、複雑な表情で名刺をもったまま突っ立っている神楽坂を、楽しそうに手招きした。 |