「わたしは正直驚いているよ。カナン。君から質問してくるとはな」
 そう言いながら、白衣のポケットからタバコとライターを取り出すイゾルデ。口元に笑みが浮かんでいる。
 彼女は前髪を極度に下ろしている。だから他の所員のように瞳から心情をうかがうことはできない。
 でも、身の回りの世話、教育係、監視役、全てを兼務する彼女との13年の付き合いは、そんな洞察力がなくても、ある程度うかがい知ることができる。たしかに彼女は驚いている。
「うん、自分でも不思議だと思ってるよ」
 冗談めかして答えてみる。本当は冗談でもなんでもないのだけど。
 「まぁ、ここがどこなのか、などというのはもっともな質問ではあるよ。失念していた」
 教卓から、まっさらな灰皿を持って僕の隣の机に腰掛ける。
 どうやら、休憩時間に入るつもりだ。イゾルデが話にのってきているのが分かると僕は少し安堵した。ここで詰まってしまってはしようがない。
「では、どのジャンルがいいかな?時間が許すならば、有史あたりから話す準備はあるが?」
「う、それはいいよ。とりあえず、地理的なところを教えてよ」
 少し苦笑が混じってしまった。
「地理か。」
 僕とイゾルデ以外だれもいない教室に、ライターの金属音が鳴り響く。
「あまり得意な分野ではないので、話に脈絡がなくなったりするが、軽く流すつもりで聞いてくれるといい」
 そう前置きすると、彼女は時折、紫煙を漂わせながら語りはじめた。
 僕は、彼女に失礼がないように注意しながら、視線を窓に向ける。
 自分の浅黒い顔と対面しながら、自問してみる。

 自分の存在理由。

 そんな疑問を持ち始めたのは3日前のこの場所でだった。
 視線をガラスに映る自分からその奥に移してみる。
 今日もいない。
 この教室は建物自体の3階に位置するから、海岸へ続く草原を見渡すことができる。
 3日前、その草原の真中あたりに女の子を見つけたのだ。その娘は僕と同じ、白いシャツにズボンという姿で、僕が次の教室へ移動するまで、ずぅっと海を眺めていた。
 僕は「兄弟たち」の一人を見るのはその時が初めてだった。
 勝手に決め付けているけど、あの娘はそうだと思う。

 「兄弟たち」、所内の人たちはそう呼ぶけど、僕はその表現が適切であるとは思えない。僕には血縁による人とのつながりがないからだ。
 一人だけ「親」に近い人物はいるが、あの人はそうではない。

 カリキュラムなどで、この類の話になると、決まって担当所員は僕の境遇に同情してくれたり、時には励ましてくれたりする。僕の立場が一般的ではなく、なおかつ最低限度の人が持ちうる権利がないためだ。
 そういった彼らの対応は理解できる。それこそ、人間性という意味ではあたたかい人たちなのだろう。
 でも、明文化しないとそういった権利を得ることのできない人と僕がそう変わりがあるとは思えない。
 だから、劣等感なども感じたことはないし、ましてや思春期にはいって情緒不安定になるには年齢的にもう少し先のはずだ。
 ではこの不安感はなんだろう。あの娘を見つけてからなのはわかるが、その接点がわからない。やはり自分を取り巻く環境に対して少しずつストレスが蓄積されていたのかもしれない。

「…という永世中立国領内にあるわけだが、一般に流通している地図には、この位置は記載されていない」
 イゾルデの話が終わりに指しかかっているようだ、僕は視線を戻した。
「だから、外に出て迷子になってしまうと帰ってこれなくなるぞ。カナン」
 彼女の話は昨夜、僕が調べたこととほとんど一致していた。それにしても、その知識量もさることながら、これほど要点を明瞭簡潔に話せる彼女には、いつも驚かされる。
「少しつまらなくなったな」
 2本目のタバコを消しながら彼女は自身に愚痴った。
「そんなことないよ。でもごめんね、突然こんな話させて」
「そう言ってくれると、嬉しいよ」
 本当に自信がなかったんだろう、少し照れの入ったイゾルデの言葉を聞きながら、再び外に視線を向ける。
「あれが海なんだね」
「うむ、地中海だな。保全組織がうまく動いてるらしく、他の海より汚染はマシらしい」
 僕は本題に入ることにした。
「イゾルデ、近くで見れないかな。海」
 いつのまにか、僕は3日前のあの娘の視点で、まだ見たことのない、抜けるような空の青と、深い海の青の境目を眺めていた。
  
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