眼下から、かすかなざわめきが聞こえる。人の喧騒、金属の軋み、内燃機関、電気信号。冷たい風が、地上から屹立したコンクリートの塊に行く手を阻まれ、幾何学模様を描きながらすり抜けてゆく。それでもグレーのオブジェはさらに高みを目指している、ここが人の世界となって久しい。

切りぬかれた空の青さが妙に新鮮だ。

 出社から10分、領収書一週間分を一気に片付けて椅子にもたれかかる。数刻、ぼぅっとして出た感想である。
 思考が除々に鈍ってゆくのをふりきるかのように椅子から跳ね起きると、机上の書類をザッとさらえて窓際の席へ向かう。
 自分のボス、世間ではデスク、あるいは編集長と呼ばれる40すぎの男が彼女の気配を察知したのか、端末から顔を上げた。
「八千草、まだまとまらんのか?」
「ハイ、これ先週の経費一覧。立て替えてますから、後で振り込んどいてください。それと、備品受領願いです。内容はMD5枚とその他モロモロ。いつもといっしょです。ハンコください。あ、レポートは届いてますよね。?」
 八千草と呼ばれた女は、上司の詰問にいっさい答える様子もなく、一気にまくし立てて一息つく。
「大丈夫ですよ。他社並の情報は流してるでしょ?」
 上司の無言の質問に答えると不敵な笑みを浮かべ、さらに続ける。
「ボスの期待は裏切りませんよ。ちゃぁんと締切りにはスッパ抜かせてもらいます。あ、今週も帰ってきませんので。んでは、来週」
 こうして週に一度の「儀式」を完了させると、八千草 園は手をヒラヒラさせながら自分の席に戻っていった。
「おう、ソノちゃん久しぶりぃ」
「ソノ、会社辞めたって聞いたぞ?」
 同僚や先輩の声に笑顔や冗談で答えながら、自席の荷物をまとめ、端末の電源を落とす。
 そのまま、席に座ることなく玄関へ向かうと「お先に失礼しま〜す」と快活に挨拶をして扉をしめた。
 人並み以上の粘り強さと、華奢で小柄な見た目からは想像できない狡猾さで彼女はこの5年間、周囲の期待以上の実績を上げてきた。
 通常であれば、先輩記者の荷物持ちや、事務処理、もしかしたら普通のOLよろしくお茶汲み係にあまんじているところであるが、園はすでに一人で仕事をこなしている。彼女の仕事に対するスタイルもその要因であるが、周囲に口出しさせず、上司を事務処理、あるいは社との連絡役程度に使うあたりはフリーとさして変わらない。

 エレベータの到着を告げるチャイムが廊下に響く。朝の9時過ぎといえば、どこの会社も1日がはじまったばかりで廊下は水を打ったように静かだ。
 園は黒縁メガネから外出用のフレーム無しのそれに架け替えながら、だれもいないエレベーターに乗り込んだ。
「ち、ちょっと待って」
 せわしい駆け足に加えて、切羽詰った口調でそう言われてしまえば無為にドアを閉めるわけにはいかない。
 肩で息をしながらその男はすぐに駆けこんで来た。
 ひょろ長い長身にシワだらけの上着。同期の伽貫である。
「ありがとうソノちゃん。助かる」
 息をつきながら、なんとか笑ってみせる目の下には、くっきりとクマがうかんでいた。
「ナニ?また徹夜?いいかげん身体壊すよ。ってもう壊してるか」
 少し呆れ口調でもらすと、スチールの壁に背中を預ける。同時にエレベーターが動き出した。
 まあね。と返すと伽貫も壁にもたれ、先ほど買ってきた缶コーヒーのタブを起こす。
「やりぃ、トギちゃん気がきくぅ」
「そ、ソレぼくのだようぅ」
 するりと缶を奪い去り、さもうまそうに口をつける園に、腰の引けた非難をとばす伽貫。
「今のあんたには、コッチの方が効くよ」
 どこから取り出したのか、赤と金の派手なラベルのビンを、疲労困憊を全身から発散している男に放り投げる。
「あ、それ助かる」
 そう言うと、伽貫はビンを一気にあおった。先ほどの園以上にうまそうに飲む姿を見て、今度は本当に呆れる園。
「ホント、大丈夫?」
「あ、ああ、今の相手は夜がメインな人種だからね」
 そう答える伽貫は心なしか元気になったように見える。
 入社当初の伽貫は目元が涼しげなスーツの似合う、どちらかといえば、やり手の商社マンというイメージがあった。それとマスコミという業種のとりあわせに園は違和感を隠せなかった。
 なんでも馴染むものなんだなぁ。
 勝手な感想を声に出さず漏らす。
「なに?まだ都市伝説追っかけてるの?」
 1ヶ月ほど前、久方ぶりに集まった同期たちで新宿へ呑みに行った際、伽貫が話していたことを思い出した。
 始めは同じ社会部に配属された。その後、芸能畑、時には欧米に駐在と、何度も出世コースに乗りながら、1年前、好きでなければ行かないような場末のオカルト超常現象関係の部署に転属となった時、周囲は伽貫に対して同情を隠せなかった。
 しかし、本人はまんざらでもないようであった。「不健康」な疲労が気持ち良い、などと言っていたのを思い出す。
「あれは片付いたよ。今は終末予言」
 園は素直に怪訝な表情で、はぁ?と声に出す。
「いまさらなに?90年後のハナシ?」
 20世紀末の終末予言。こういったジャンルに興味がない園も知っている、とんだ法螺話である。
 厳密には法螺とはいえないかもしれない。実際その年は、事故、暴行、殺人ともに例年を上回り、視野を広げれば局地的な異常気象や穀物危機などの天災、はたまた東欧を中心とした各地の民族紛争は隣接地域に伝播した。
 それでも人間は生きていた。減るどころか人口増加はあいかわらず留まるところを知らない。
 当事者には失礼ではあるが、ニュースに事欠かない年であった、というのが園の感想である。それから3年が経っている。
「暦に間違いがあって、10年ずれてたとか?」
 10階でエレベーターが止まり、清掃のオジさんが一人乗り込んできたが、かまわず伽貫は園に答えた。青白かった顔が少し良くなっていた。
「アレとはまったく別ものだよ。ネットじゃ結構ウワサになっててね」
 独壇場な展開になってきている伽貫の声を耳に入れながら園はポケットの中のリモコンに触れた。ほどなく、フレーム無しのレンズに白いローブを身にまとった30歳後半の男が薄膜投影される。
 妖しさ加減じゃ、案外、似たようなものかも。
 伽貫にバレないよう苦笑しながら、先日のインタビューを園は思い浮かべていた。
 金管楽器の独特な音色、その音色に時には乗せられ、また微妙にずらされながら紡がれる数え唄。
 園は残りのコーヒーを飲み干した。

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