夕方5時をすこし回った都内某繁華街。下校途中の学生から、OLや会社員に客層が変化するにぎやかな時間帯だ。
「コンチワ!まなみ、来てませんか!?」
 静寂な店内に突如として乱入してきた3人の女子校生は周囲にざわめきを振りまいたが、その3人のメンツを確認した周囲の人々は再び静けさを取り戻した。
 最近よく聞くアニメの主題歌が静かに流れている。
「え、あ、今日は来てないけど?」
 ソバカス眼鏡にピンクのエプロン姿の店員が、カウンターに詰め寄る3人に気圧され、ぎこちなく答えた。
「ぬぅ、平時のパターンからして、ココだと踏んだのだが」
 店員とのやりとりとは一変して、芝居掛かった台詞を言いながら、ショートカットの女子校生は顎に手をやり、ちらりと隣を見る。
 その視線の先、左右に従う2人より頭ひとつ背の高いロングヘアの女子校生が、少し間をおいて口を開いた。
「まさか、副部長が」
 眼鏡の奥の理知的な瞳を曇らせながら呟く。その言葉にショートカットの女子校生は返す言葉がなく、反対側に従うおさげ髪の娘も表情を曇らせたままだ。
「このままでは、Xデーに間に合わない。」
 左右に付き従うように立っていた2人の肩がその言葉に大きく揺れた。しかし、2人の様子に気づくでもなく、さらに思索を深めて独り言を呟く。
「各自の進捗もおもわしくないのに、ここへきて一人分か…。副部長のノルマを3等分したとして、ベラ原稿で120…」
「きゃ〜!」
 突然、ショートカットの娘が頭を抱えて悲鳴を上げた。
「作戦部長!」
 叫んだおさげ髪の娘が、すばやく回りこみ、ショートカットの娘の肩に手を置いて顔を上げた。芝居掛かった悲痛な表情がそこにあった。
「部長、それ以上はっ。…精神汚染の危険性が!」
「しかし経理部長、最悪の事態は考慮せねば、年間予算が5千円という我が文芸部において、2ヶ月後に控えるアレは重要な資金源たりうる…」
「きゃ〜!」
 今度は2人とも頭を抱えだす。
 最初に立ち直ったのは経理部長と呼ばれたおさげ髪の娘だった。なぜか息が荒い。
「いいえ、そのような事態はなんとしてでも避けなくてはなりません」
「そうです。弱気は禁物です、部長」
 いつのまにか肩膝をついていた作戦部長が続けた。その瞳は新たな決意に燃えている。
「2人とも…」
 そう呟いた部長はつややかな黒髪を揺らしながら天井を仰いだ。
「我が文芸部に属する者、この時期に消息をくらますことは万死に値する」
 すぐさま向き直った文芸部部長は、張りのある声を2人に投げかける。
「あまつさえ、部員を支え、時には叱咤し、また規範となるべき副部長であればその罪は重い」
 拳を突き出して熱弁を振るう文芸部部長の瞳は空を見つめていた。さながら見えない何かを見つめているような。
「結城まなみ元文芸部副部長、捕縛の後、10日間校正作業の刑に処す」
 その言葉が、弱々しく寄り添っていた2人に追い討ちをかける。
 しばし凍り付いていたショートカットの作戦部長は膝を折り、その場にへたり込んだ。
「愛子っ」
 崩れ落ちそうになる同級生を、思わず名前を叫びながら支えた経理部長の瞳には、視点が定まらず放心した作戦部長の表情があった。
「その文面に感情移入することも許されず、…ただ、誤字脱字を求めて活字を追い続ける、無限地獄…」
 無感情に紡ぎ出される台詞に経理部長は、唐突に想起された苦渋の過去に歯を食いしばりながら言葉を継いだ。
「3日もすれば、文芸部取り決めのバイオハザード・レベル3に属する活字拒絶症の危険性もあるという、…部長!」
「言うな、抜け忍には死を!文芸部の結束は血よりも濃いことを部員に知らしめる良い機会だ」
 2人を見つめる文芸部部長の表情にサディスティックな笑みが浮かんでいた。
「…恐怖政治」
 声に出さずに呟く経理部長。
 その緊張感ただよう場面を瓦解させたのは、3人の背後からの声だった。
「あの…」
 振り返った文芸部部長の前に1人の男性が所在なげに突っ立っていた。胸の前にはスクリーントーンやらGペンの換え先やらが抱えられている。
「あ、すみませ〜ん」
 満面の笑みと黄色い声にスイッチした文芸部部長は男にそう言うと、未だ自分の世界に没入している2人の部員の肩をたたいた。
「こんなところで油売ってるヒマはないわ。次はどのあたり?」
「中野あたりじゃないですかねぇ?」
「まんだらげか、ありそうですね」
「覚悟なさい!まなみぃぃ〜!」
 そんな台詞を残して3人の嵐が去っていった。
 店内のBGMはサウンドトラックの2曲目を終わろうとしている。
 目の前の男性客に目もくれず、しばし呆然としていた店員は、ふと我に帰って視線をカウンターの下に向けた。
「あなたたち、すごいわね」
 苦笑まじりのその視線の先には、うずくまって顔だけ店員に向けるまなみの姿があった。
「あれくらいテンション上げとかなきゃ、冬コミは乗り切れませんからね」
 そう言いながら、膝のほこりを落とているまなみを終始あきれた表情で見ていた店員が、突然なにかを思い出して大きな瞳をさらに見開いた。
「そういえば、あなたたちのツケ、結構たまってるのよね」
 脈絡がないわけではないが、唐突に変わった話題に、まなみは馴染みの店員に戸惑い気味の顔を向けた。
 先ほどとは打って変わって伏目がちにまなみを見ている、ように見えるが、眼鏡が照明を反射して真意は知れない。こちらに顔を向けつつ、片手でレジを操作している異様な光景に、まなみは追っ手から逃れた安堵の笑みをひきつらせた。
「で、でも毎年コミケが終わったら、きっちり返済してるでしょ」
 努めて平静を装った台詞のつもりであったが、その声は震えていた。
 レジスターの液晶パネルに黒三角の付いた数字が止めど無く流れていく。
「さっきは突然の事で、ついかくまっちゃったけど、あなたがいなくなるとコレを回収できる可能性も下がるわけよね」
 またもや緊張感という沈黙が流れた。
 そして、それを破ったのは、相変わらずほったらかしになっている男性客だった。
「…あの」
 刹那、店員はまなみに飛びかかった。1人でも狭いカウンターである。逃げ場はない。
 だが、店員の動きより半瞬早く、まなみは両手をカウンターに着いて側転の要領でカウンターを飛び越えた。しなやかな足が弧を描き、吊り下げられていた販促ポスターをはじく。さらに着地の瞬間、スカートがまくれあがらないよう膝を曲げるのも忘れてはいない。
「今回だけはゆずれないの、ごめんねー」
 そんな捨て台詞を残しつつ、ダッシュで店を出てゆくまなみを店員はカウンターに突っ伏しながら見送るしかなかった。
「文系のクセに、なんて運動神経…」

 外はまだ陽がさしていた。といっても夜はそこまで近づいていて、その紅い光はビルの隙間を抜けて真横から射し込んでいる。
 飛び降りる勢いで2フロアを駆け下りたまなみは、追っ手が無いことがわかると、踊り場で足を止めた。
 フレームだけの無骨な手すりにもたれ、夕日をじっと見つめる。
「こんな大事なこと、忘れてたなんて」
 声に出さずに呟くまなみの目の前を、白い靄が漂う。それが自分の吐息であることも忘れ、まなみはしばし見入っていた。
 靄の粒をはっきりと見ようとすればするほど、ぼやけていく。そして、すぐに大気に拡散してしまう。それは終始おぼろげで、もどかしい。
 今の自分を支配している切ない感情の出所が、それに近いことに気づいたまなみは、彼氏にすら見せたことのない真摯な表情でぽつりと呟いた。
 そして身を翻すと、先ほどにも負けない勢いで残りの階段を駆け下りていった。


     「待っててね。 …ハナル」

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