前方車両のブレーキランプが瞬く。低速車に引っかかったのかと思われたが、そのままズルズルと減速は続き、しまいには停車してしまった。どうやらこの先は渋滞のようだ。 ナビのモニターには確かに渋滞情報は表示されていない。運転手は首をかしげたが、原因はすぐに分かった。1時間ほど前からVICSの情報が更新されていないのだ。 首都高に乗り入れてすぐだったので迂回ルートは無い。 若い運転手はコンソールの時計に目をやると、車内にいきわたるよう、少し声量を上げて言った。 「すみません。渋滞にひっかかっちゃいました。20分くらい遅れそうですね」 彼が知るところの4人のスケジュールは大使館別邸に入った後は休むだけのはずである。現在の時刻は21時を少し回ったところ。それでも23時までには到着できるはずだ。 彼は沈黙を了承と理解した。 いつもの年輩者と違う若い乗客を相手に、楽しい会話などを期待していた彼ではあったが、空港で出迎えた時点で希望はあっさり瓦解していた。 ルームミラーを覗き込む。 20代前半に見えるアジア系男性に、年齢こそ察することはできないが、若いと思われる北欧系男性。 男性二人組の後ろには、おそらく北欧系であろう女性が座っている。サングラスを掛けてはいるが、北欧系男性と同じくらいか、若いように見える。 そして、青年運転手は3人の名前を知らない。 気を取り直してナビのモニターに向き直って、ボタンを何個かいじってみる。装置自体に異常はないようだ。 とすれば、衛星か。 そう思い始めた矢先、モニターにノイズが走った。 変なボタンでも押したかと危惧したが、どうもタイミングが違う。 「あらら、壊れたかな」 「そんなことないって」 運転手が顔をめぐらせると、助手席のロシア人少女も同じようにナビのモニターを覗き込んでいた。 「ちょっと機嫌が悪いだけだって」 4人の中で唯一自己紹介に応じて、ソーニャと名乗った少女は、さも当然のごとく言う。 彼女は他の3人とは異なり、よく喋るし、よく笑う。表情がコロコロ変わる可愛い異邦人相手に会話ができただけでも、彼は救われた気分になっていた。 「ほんとかい?」 運転手の疑問をソーニャは笑って受け流した。 「ホントほんと。後1時間くらい経ったら元に戻るって」 シートにもたれ直すソーニャに運転手は笑顔ながらに不平を言う。 「なんだいそれじゃ、君たちが大使館についてからじゃないか。それでは意味ないよ」 「うん、ごめんね」 予想外の返事に運転手は助手席に顔を向け直した。ロシア語にはすっかり慣れているはずである。聞き間違ったとは思えない。 しかし当のソーニャは何事もなかったように、ゲーム機などをとりだしていた。 仕方なく運転手は正面の赤いランプの列が消えるのを待つことにした。 『出発は翌早朝になる』 運転手以外の4人には、車内という風景ともう一つの世界が目の前に広がっていた。 ソーニャの未使用記憶野に構築された仮想空間を、精神感応、いわゆるテレパスとリンクさせ視覚に配信された、真っ暗な空間。平面的でありながら、奥行きを感じさせる現実にはありえない感覚に初めはとまどう。「仮想」とはそのあたりに意味があるようだ。 仮想空間には、正方形の浮き島が立体映像として表示されている。片隅に表示された縮尺によれば、全長5キロを越える建造物だと分かる。 平らな陸地には長方形の小さなガラス板が整然と並んでおり、対角線上に、これもまた等間隔に塔が配置され、中央には一際大きな塔が建っている。 欄外の小窓には、塔の拡大表示と、特殊鋼板で組まれた箱が表示されていた。 『空路、陸路を経てメガフロートへ向かってもらう』 クレムリンの紅い壁の奥からダミー衛星数基を介して送られてくる男性の声は、ノイズと判別がつかないほど圧縮されていたせいか、くぐもって聞こえる。 『目標は?』 別の男性の声が響いた。車内の北欧系男性のものだ。少し相手を見下した口調になっている。 通常、任務の詳細は本国で説明を受けるものである。とりあえず出国させられ、あげく移動中に任務の説明なぞ、異例である。 かといって、任務が特殊な内容であったわけでもない。太平洋上に浮かぶ、米国系電力会社の発電施設への潜入である。軍が動くのであればまだしも、4名という小隊にも満たない人数であれば、例え発電施設の正体が別のものであったとしても、造作のないことである。 男の見下したような口調には、難易度の低い任務であるにもかかわらず、手際の悪さへの不平を意味していた。ストレートに感情を表す男である。 『説明は続けているよ。オレグ・ダシコフ大尉』 4000キロ彼方から送られてくる声には苦笑が混じっていた。 彼らは軍隊における、部隊というものに所属していない。そのため明確な指揮官が存在せず、各任務、作戦において適当と思われる人物が一時的に担当することになっているのだが、大抵の者は彼らの、軍の規律を弁えない受け答えに憤慨する。 今回の担当指揮官はまだ忍耐力が持続しているようだ。 『任務は米国軍の実験兵器の破壊だ』 『実験兵器の概要は?』 今度はアジア系男性の声である。 通常、任務説明は片幅通信である。よほどの問題がない限り疑問を口にすることは許されない。任務説明は情報を吟味、討論するためではなく、正確に情報を伝える場であるからだ。 ほとんど伝統と化している軍隊のルールであるが、彼らは配慮していない。 『詳細は不明だ。ただし、ハナルというコード名は確認している』 先方の声は律儀に返答しているが、声音にはいらだちが混じりはじめていた。 『ハナル?!ハナルって宇宙人の遺跡とかって言われてるアレ?!』 相手の機嫌などおかまいなしに、ソーニャが声を裏返させる。 いつのころからか判然としないが、その噂は常に吹聴されていた。 『ハナル』と呼ばれる恐ろしい威力を持った兵器を米軍が開発している、と。 噂と言われるだけに、諸説は数多くあり、全く新しい概念のBC兵器であったり、数時間で北半球を壊滅させる爆弾だとか、SDI計画の最終形態だなど、噂は噂を呼んでいた。 ソーニャが口走った、宇宙人云々とは噂の「尾ひれ」の部分である。 このような半ば伝説めいた噂というものは、明確な敵、あるいは仮想敵でもよいが、それらと対峙する組織であれば、どこにでもあるものだ。『ジャッカル』と呼ばれる伝説の暗殺者を餌に逆スパイを狩りだした英国情報部などは良い例である。 時として、意図的に流布されるものもあるが、被害妄想の産物であるのがほとんどだ。 ダシコフは深いため息をつくと車窓に目を向けた。 この男を含む4人は通常の経路で軍に属しているのではない。軍付属の研究施設より派遣、という形態で携わっているのである。そのため、軍隊独自の連帯意識の外に彼らは位置づけられており、それを排斥しようと考える軍関係者も少なくない。 今回の任務はそういった連中が考え出した、やっかみ仕事なのか、彼は愚痴を言いたくなった。 『そんなものが…』 彼の言葉をさえぎるようにもう一人の女性の声が響く。 『では、ハナルの情報は、入手され次第こちらへ流していただけるのですね』 『当然だ』 ダシコフはルームミラー越しに背後の女性を見る。 軽く胸の前で腕を組んでいる彼女から表情はうかがえない。見事な銀髪が街灯の明かりに輝いていた。 『拝命しました。キーリク・カーライル少佐以下3名は明朝、東京を経ち大阪を経由、目標であるメガフロートへ潜入します』 この言葉を区切りに、キーリク以外の3人は緊張を弛めた。 『待ちたまえ』 先方の声に、ソーニャはゲーム機のポーズボタンを解除する手を止めて、ため息をついた。 |
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