空は高く、おだやかな日差し。
 開かれた市場。新鮮な野菜に季節ものの魚介類。
 活気あふれる人混みの、そこかしこに見かける民族衣装の姿は、短い夏の到来を告げていた。

 連発する花火の音。
 夜を待てない者がいるらしい。気持ちはわかる。短い夏だもの。
 止まない花火、いや、ちがう。

 悲鳴、銃声。逃げまどう人、壊れる屋台、ひしゃげた西瓜。
 戦車の金切り声、泣き叫ぶ子供、こと切れた母親、人だった肉塊。

 走った。とにかく何も見たくなかった。

 止まない銃声。倒れているのは、腕を無くした人、頭を無くした人、心を亡くした人。

 見たくない、見たくない。

 気が付けば、いつもの寮の廊下。
 先生は前から注意してくれていて、避難場所も教えてくれていたけど、結局、普段の生活を反芻してしまっていた。
 誰もいない。足元のガラス片が嫌な音をたてる。
 ここでも悲鳴、聞いたことのない言葉の男の声。もう、見たくない、聞きたくない。
 でも、今の声は…。
 鈍痛、目の前が暗くなった。

 ――あの声はどこかで聞いたことがあった。
「キリー、助けて」
 そう、ルームメイトのマリー。そばかすだらけの、本の虫。そして私をキリーと呼ぶ唯一の親友。
 でも、なぜ叫び声なのか、なぜ私に助けを求めるのか。

 切り裂かれるような痛み。ぼやけた視界。
 目になにか入った。
「たすけて」
 遠くに見えたのはマリーだった。虚ろな瞳、だらしなく開いた口、声にならない声。
 いつものベッドの上に知らない男がいた。
 そして私の目の前にも、聞いたことのない言葉を喋る男がいた。

 爆竹の音が鳴った。
 男が、床に向けて爆竹を鳴らす。
 床にはダナとアイシャが重なっていた。爆竹が鳴るたびに二人の身体が震える。
 様子がおかしい。

 二人は糸の切れた人形のようにだらりとしていて、爆竹の当たる部分だけが震えていた。
 男が笑いながら何か言っている。言葉は分からなかったけど、意味は分かったと思う。
 おまえもこうなりたいか。
 たぶん、そう言っているのだろう。

 後ろ手は動かないので、倒されたとき、右肩をしたたか打った。
 涙が出てきた。痛かったせいではないと思う。

 私は理解した。これは戦争なのだと。
 今、私は戦争に負けたペナルティを払っているのだ。
 私が負けたわけではない。でも、誰かに依存していたのは本当だと思う。
 だから罰は受けないといけない。

 身体に擦り付けられる汗、顔に吹きかかるタバコ臭い息、笑い声。吐き気がする。でも、死にたくなかったから、耐えるしかない。
 いや、耐える必要などなかった。
 すべてをニセモノだと思えばいい。実際、感覚が鈍くなり、自分が身体から離れていくようにも感じた。
 だから身をゆだねた。例えば酷いTVを見ている時のように。そう、簡単なことだ。

「たす、けて」
 マリーもそう思えば良いのに。他人事だと。そうすれば、こんなにも楽なのに。
 どちらにせよ、この人たちは悦んでいるようだ。言葉は分からないが、たぶん殺される事はないだろう。

 マリーに被さっていた人の動きが止まる。
 傍らのもう一人になにか話している。
 気になった。けど、私の顔は無理矢理目の前の人に向き直らさせられた。唇を無理にこじ開けられて舌が入ってくる。
 吐き気が押し寄せてきたけど、すぐに慣れる。
 なんてことはない、やっぱり身体と心は別物だ。

 廊下で聞いた時よりも数倍大きな、突然の悲鳴。
 ぼやけていた身体の感覚が少し戻ってきた気がした。
 私はベッドに顔を向けた。口元から唾液がつたう。
 やはりマリーだ。手のひらにナイフが突き立てられて、ベッドに釘付けされていた。
 傍らの人がナイフを動かすたびに、マリーは酷い悲鳴をあげる。呼応するかのようにもう一人がうなり声をあげていた。
 この人たちはみんな狂ったように笑いながら喋るので、はっきりと分からなかったが、『良く』なったらしい。
 良かったね。まだ殺されることはない。

 また悲鳴が聞こえる。
 それを追いかけるように、笑い声と荒い息。
 この人たちが悦んでいる間は大丈夫。
 そう、大丈夫。
 男たちが笑っていれば大丈夫。
 指先が冷たい床に触れている。

 馬鹿な女だ。と目の前の男が言った。
 なぜだろう、私はこの男たちの言葉が理解できるようになっていた。
 それより、馬鹿とは私の事だろうか。
 もしかすると、マリーの事を言っているのか、この男たちは。
 背中がひりひりと痛い。

 急に可笑しくなった。
 目の前の男が怪訝な表情で見つめる。

 この男どもは、なんなのだ。
 なにが、そんなに、おかしいのか、こいつらは。

 たまらない。こらえようとしても無理だった。声に出して笑った。

 額に冷たい塊が押し付けられる。おそらく銃だろう。目の前の男が怒鳴っている。
 下卑た笑いも、怒声も見苦しいだけだ。

 今日、市場で見た西瓜と同じだ。
 鼻の骨を中心にじわりと力を込める。
 顔のあたりは構造が複雑な感じがしたけど、以外と脆いものだ。小さな骨が皮膚を破り、その隙間から堅さも様々な肉がはみ出してくる。
 一呼吸おいて、一気に押しつぶす。
 熟れたリンゴを潰すと、こういうイメージだろうか。
 唾液などと混ざってピンク色に薄まった血液が、頭髪の隙間から、耳から、破れた皮膚から、霧吹きを使ったようにあたりに霧散する。
 口だったあたりから吐き出された、なま暖かい液体が顔にまとわりつく。嫌な臭い。

 後ろ手の手錠を消して、ゆっくり立ち上がる。
 右手は大丈夫だけど、左手首の跡はしばらく残りそうだ。
 床に転がった男は、大きく痙攣を繰り返し、それに呼応するように何も無くなった顎の上から、大量の血液を吐き出している。壊れたポンプか何かのよう。
 見苦しい。
 形が解らなくなるまで、砕いたり引き裂いたりした。

 なぜこんな簡単な事、もっと早くに気づかなかったのだろう。そうすればマリーを泣かせる事もなかったのに。

 私の服はどこかへいってしまっていて、代わりにいろんな粘液がまとわりついて気持ち悪い。すぐにシャワーをあびたい衝動にかられたけど、それは後だ。
 引きつった顔で男どもが私に銃を向けている。とてもうるさい。
 まずは部屋を静かにしないと。

「停めてくれ!」
 ダシコフは叫ぶと同時にドアに手を掛けていた。
 運転手がブレーキを踏んだ事も確認せず、外へ出る。
 一瞬の出来事でソーニャは面食らうばかりだったが、屈強なロシア軍人の顔面が蒼白になっているのは解った。
「少佐?」
「軍に引き取られた頃は私もそうだった」
 顔を伏せたままキーリクは少女の問いに答えた。

 次にキーリクを呼んだのはアジア系男性だった。
「少佐、一つだけ教えて欲しい」
 目を閉じたまま、男は続けた。
「グルツヌイの悪魔なのだな?」
 サングラスをかけ直しながら、ゆっくり顔を上げる。
「ヤン、あの時は貴方の国にも迷惑をかけたね」
 そう言って、彼女は口元をほころばせて見せた。

 
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