銃口は女の額に。
 しかし、ナイフは俺の喉元に届いていない。
 一瞬、時間が止まる。

 俺が引き金を引くのを躊躇しているのは、米軍に抜け駆けして単身追跡したあげく情報が得られないのでは元も子もない、というのが主な理由だが、女の腕に違和感を感じた、というのもあった。それも、以前触ったことのある感覚だ。
 いつの記憶だったか。

 女はおそらく北欧系だ。
 細いブロンドの髪に青い瞳、美人の部類に入るのだろう、普通なら。
 シャブ中のように視点は定まっていないが、輝き自体は失われていない。そんな瞳が俺を見つめている。睨んでいるわけでも、恐れているわけでもない。ただ、見つめている。
 この種類の人間によく見る「死」にあまり関心のない眼だ。俺は少し辛くなる。

 道徳だとか倫理という言葉で片づけられてしまうのだろうが、結局人を殺めるという行為は誰にとっても抵抗があるものだ。種の存続が本能であるのなら当然のことだろう。
 では目の前の女のように殺人を生業とする人間はどうやって本能の抵抗に対処しているのか。
 回答は至極簡単だ。
 殺人に正当な理由を付ける。内容はどんなものだって良い。他者から卑下されようが自分が納得できていれば良い。
 殺人を犯したくないという本能の抑止を理性で抑止するわけだ。
 富のため、祖国のため、亡くした友人のため、いろいろな場所で、さまざまな理由を見てきた。しかし、どれほど意志が堅かろうが、少し気を抜けばあっさりと霧散してしまう。理由を立てるのは容易だが、それを維持するのは難しい。
 人を殺す、とはそれほどに重い。目の前の女はどんな理由でナイフを握っているのだろう。

 表情の無かった女が口を開いた。
「be surprise me, can you?」
 そして、冷笑。
 撃つのを迷っているのがバレたのか、その一言をきっかけに女から鳥肌が立つほどの殺気がみなぎってくる。
 女が動いた。腕を強引に押し込んできた。
 俺の背中が壁にぶつかるのと、喉元を狙っているナイフに違和感を感じたのは同時だった。

 膝を折って、詰め所から飛び出す。
 背後で鉄パイプか何かが落ちる音が聞こえた。
 振動発熱型のヒートナイフだ。判断が遅れていたら頭が飛んでいた。
 熱伝導性の高いものほどよく切れる。ドアの施錠もあれで焼き切ったのだろう。

 それより俺は迷っていた。
 女の腕の正体を思い出したからだ。ここは一旦退くべきかもしれない。
 小走りに距離を開けながら、振り返る。

 空気を切り裂く音が聞こえたような気がした。

 女は酔狂で接近戦を挑もうとしたわけではなかったのだ。
 鼻先数センチ手前をナイフが空を切る。
 瞬伸性生体部品ってヤツだ。
 特注の生体部品にプリサージュ系ホルモンを分泌することにより、細胞を任意の方向へ瞬間的に熱膨張させる。そのため、一般の偽造皮脂より木目が細かく、設定体温が低いのが特徴だ。
 カメレオンの舌のようにラットの尻尾が伸びるのを二宮が見せてくれた。

 光神経が通常の1.25倍の速さで視覚情報を右腕に伝達する。腕自体が視線と腕の位置を計算し、正確な射角に銃を導く。眼に見えるものであれば、正確に打ち抜くことができる。
 女の腕が元の長さに戻るタイミングを見計らって引き金を引く。
 女は飛んだ。
 厳密に言えば左腕を延ばして、上にある何かを掴んで身体を引っ張り上げたのだろうが、俺の今までの経験で飛んで避けたやつはいない。
 たとえ視覚と同じ早さで腕が動いたとしても、対象を眼で追えなければ意味がない。そこにはやはり経験則というものがある。

 出遅れはしたが、右腕は確実に女の軌跡を追っていた。
 けたたましいくコンテナを叩いて火花を散らせていた9ミリが、女の脚に命中する。
 空中では女の姿勢が崩れていた。しかし、グロックは女を狙ったままだ。
 こういう手合いに甘さは許されない。最悪、殺してしまってもいいと俺は考えを変えていた。

 コンテナにへばりついた女から突然ナイフが飛び出した。
 俺の死角を計算にいれた右腕だけで投げられたそれは、まさに突然だった。
 迷わず引き金を引くが、ヒートナイフは弾丸を気化させながらまっすぐ銃口に向かってくる。
 思わずのけぞる。

 何が起こったか分からなかった。
 女から視線を外したのは一瞬だったはずだ。
 何かに首を絞められたかと思うと、強引にコンテナに叩きつけられる。

 女の左腕だ。
 頭では分かっているが、今一つ要領を得ない。
 完全に隙をついたネックハングは、かなりキメられていた。関節技にしろ締め技にしろ極まってしまうと、反撃できる時間はそう長くない。急速に意識が遠くなる。
 俺は引き金を引いた。
 目の前をマズルフラッシュが瞬いて、鮮血が飛び散る。

 複数の足音とともに、マグライトの光線が視界をよぎったのはその時だった。
 米軍の連中だ。
 よろけながらコンテナに手をつくと、女を探した。血の巡りが変だ。
 だから最初に女らしき姿を捕らえた時、目がかすんで錯覚でも見たのかと一瞬思った。だが、違う。
 女は、コンテナの上に立っていた。それもさっきの位置から動いていない。

 そして、笑っていた。狂ったように。

 制服の両袖は破れ、ブロンドの髪を振り乱し、脚の怪我どころか、手首が無くなったことすら気にならないように、けたたましく笑う。正直、背筋に冷たいモノが走った。
 こんなヤツに目を付けられたら、やっかいなことになる。
 できればここで始末をつけておくべきだろう。

 しかし、俺は出口に向かって走っていた。
 女の笑い声に引きつけられた米軍の連中とは逆の方向へ走る。

 ようやく俺は女の意図が分かった。

 遠くでガラスの割れる音が聞こえた。裏口の扉が見える。なんとか間に合いそうだ。
 倉庫を出て、車道を駆け抜け、白いバンの側面に隠れる。

 少しでも不安要素と思われるものは躊躇無く排除し、完全な逃走態勢に入ったのかと思えば、俺に格闘戦まがいの反撃を仕掛けてきた。
 中途半端な対応はミスより恐ろしい結果になる。あの女なら理解しているはずだ。
 だから、一時は女の過信によるものとも思えた。

 2度目の轟音が鳴り響いた。火力は知れているが、距離はかなり近い。

 フロントガラスの割れる音と一緒に何かがバンに当たる。
 爆風で車体は大きく傾いたが、横転するほどではなかった。

 いわゆる囮というやつだ。
 最初の状況から見て、本来の役回りは別だったと思う。バックアップか、もしかすると実働部隊。どちらにせよ俺も米軍も、乗せられたことに変わりはなかった。

 囮なぞ、やっかいな役回りの極みである。味方の退路を配慮しつつ、また敵にそれを気取られずに注意を引き付ける。
 囮を演じる時間が長引けばそれだけ自身の生還確率が下がるのは当然だ。
 それをあの北欧女は嬉々として立ち回った。
 女の言葉を思い出す。そして、あの女が持つ殺人を正当化する理由がわかった。

 恐怖だ。

 対象に恐怖を刻み込むことだ。そのためであれば、多少のリスクは辞さない。
 例えば、今思い出すとゾッとしないが、倉庫の入り口で女と対峙した時などがそうだ。ヤツの特注の腕ならば簡単に首を落とせたはずだ。
 殺人を正当化するための理由が殺人になる。本末転倒だが、逆に女の実力の高さを示している。
 もう、あの女にはこの仕事しか残っていないのだろう。恐怖を植え付けることでしか、人と接することができないのだ。

 気が付けば汗だくだ。
 白い息をまき散らしながら、腰のベルトをまさぐる。そういえば予備のマガジンは持ってきていなかった。
 代わりにタバコに火をつける。
 倉庫は盛大に燃えさかっているが、通りを渡れるほどの勢いはない。一息ついた俺はすっかり落ち着いてしまった。
 周囲はかなり騒がしくなってきている。サイレンの音や怒声が聞こえ、少し虚しくなった。

『田中さん』

 結局、骨折り損だったわけだ。つまらない遺恨だけが残ったか。

『田中さん?』
『ああ、すまない。聞いている』
『まだベースにいるんですか?徳間を廻しましょうか?』

 草薙とはもう6年のつきあいになるが、こういう機転の早さには感心する。

『いや、だいたい終わっている。そっちの用件を聞こう』
『男が死にました』

 今日はついていない。タバコの煙か息かわからない白い靄が広がる。

『了解。徳間が必要なのはそっちだな』
『犯人の調達ですね。わかりました。連絡お願いできますか?私は遺体の処理をしますから』
『いや、二宮んとこの人間に始末させる。ヤツらにもツケは払わせんとな。おまえは上がっていい』

 駐車場に入ると、セキュリティが作動した数台の車がけたたましいサイレンを鳴らしていたが、なんだか遠くで鳴っている気がした。
 どうにも思考が鈍ってきているらしい。

『なぁ、草薙』
『はい?』
『―おまえの言うことも一理あるよ』
『…はぁ?』

 
page13 page15