「次のG7で北方二島返還の話が本格化しそうじゃない。ロシアが急に柔軟になって、いままでそっぽを向いていたアメリカもその気になっている」 一息つくと、ブランデーでくちびるを濡らす。 グラスを見つめる憂いを含んだ横顔に園は素直に感心した。彼女の話を聞きたくなる雰囲気が自然と醸し出されている。相手が男性であればなおさらだろう。 報道に関係する者は、対象からどれだけ有効な情報を引き出せるかが重要だが、その布石として対象に興味を持たせなければならない。 目の前の女性記者の持論であり、園は入社直後に聞かされていた。 さすが先輩。と呟きながら、園もグラスを傾ける。 安物のウィスキーではあったが、店の雰囲気というものはそれらを払拭する機能もある。程良い暗さに、シックな調度品。なにより、新聞社社屋の一テナントであるにもかかわらず総板張りにしつらえた床などは店主のこだわりを感じさせた。 ゆるやかな沈黙が流れる。 ベージュのシングルスーツを好む彼女と初めて出会ったのは霞ヶ関の記者クラブだった。部署も変わり、お互い忙しくなったせいか、たまに顔を合わす程度になってしまったが、辣腕ぶりはあいかわらずらしい。 園が目標とする記者の一人でもある。 「ほんと…」 ネクタイを弛めながら先輩記者は、しばしの沈黙を静かに破る。 「…やっぱりそうよね」 なにか思案していたようだ。園は無言で先を促す。 「例えば…そう、去年だったかの、2000円札」 含み笑いを交えて発せられた新たな話題に園の眼鏡がズレる。先ほどの話と接点がない。 「アレの発券が公表されたときなんか、話題性こそ今一つだったけど、みんなその真意を探ったりしたじゃない。ちょうどデノミの噂が吹聴されてた時期で、それをはぐらかすためだとか、単純に物流業界や金融の、具体的に言うと券売機だとか自販機なんかを刷新させて、内需にテコ入れしたいんだ。とか」 楽しげな話題でもないのに、さも愉快そうに話す先輩記者を見ていると、先ほど思い出した彼女の持論は、彼女自身の話好きを正当化するための詭弁なのかも、と園はたまに思う。 「でも、あれって実際は、あのころ企業がやってた2000円セールとかと同じ発想なのよね。2000年を迎えたから記念に新札を作ろう、みたいな。まぁ、景気回復を狙ってたって意味では似たようなもんなんだろうけどね」 一息つくと、グラスを一気に空けた。 ロックはそういう風に飲むものではないが、彼女は気にしていない。グラスを受け取って新しい氷を取り出す園も気にしていないようだ。 「とにかく、まつりごとだって、ちゃんとした理由があって進められてるってことで、パターンなんかもある程度決まってるから、情報さえこまめに仕入れていれば、筋道も見えてくるし、予測は難しいことじゃないわ」 それらがみんな報道されてるかって所は別の話だけど。と付け加えた。 「お嬢さん、多くの人がそうであるように、貴女も政治と経済の力が世の中を動かしていると思っているのかな?」 不意に園の脳裏に男の言葉がよぎる。他意の無い、自然と発せられた言葉だったように記憶している。 年の頃30歳後半といったところか、白いローブを纏ったその姿は、最近になってTVなどでよく見かけるようになった。 大袈裟な言葉であるし興味のない話であるが、何かにつけて記憶から浮き上がってくる。 氷の音が妙に心地よかった。 「でも最近、変なのよね」 軽くため息をつく。 「どこの国も何考えてるのかさっぱり見当がつかない。政治って国単位の意志じゃない?でも、パーツがバラバラに動いてる気がするのよね。さっきの北方領土の話だってそう。あんなこと言ってるけど、アメリカはまだ東欧への経済制裁を続けてるのよ?」 昨夜のニュースで米国外相が、北方返還によりアジア地域の経済活動が飛躍的に活性化するだろう云々と、コメントしていた事を言っているのだ。 園は頭をかきながら、グラスを手渡す。 「うーん、最近そっち方面は疎くなってて、良くわかってないんですけど、センパイが自分で言ってるじゃないですか。筋道はあるって」 園の言葉に目を少し見開く。 「前提を崩しちゃ、前には進めませんよ。センパイの経験が言ってるんだったらそれは信じなきゃ」 「で、今も筋道に沿っているとして、センパイの読みからズレてきているとすると、まったく新しい要素。たとえば、センパイたちの知らない人とか組織が、新しい規範で作用しているっていうのはどうですか?」 少し間をおいて反応をうかがう。 「いや、そんな謎の組織だとかじゃなくて、…そう、無害な民間団体でもいいや。そんな小さな働きかけが、ドミノ倒し的に作用してるってのは、どうです?」 言ってて自信がなくなってきたので、後のほうは茶化した口調になっていた。 対する先輩記者は、真面目とも、ふざけているとも見える笑みを浮かべていた。 「へぇ、まさか…でも、それって考えられるね」 園の言葉にひっかかるものがあったのか、動きが止まっている。また彼女が思索にふける前に園は話を元に戻すことにした。 「で、センパイ?」 呼ばれて、一瞬理解できなかったようだが、すぐさま苦笑を交えて応えた。 「あ、逸れちゃったね。うん、そんなわけだから、ロシア系マフィアとかの再流出が始まってんだよね。ヤクザは警察と馴れ合ってるから無茶しないけど、外人サンは文化が違うからねぇ」 予想していた答えではあるし、当然かもしれない。しかし、昼間の、すでに昨日のことになるアレは、外国組織の仕業ではないと園は感じている。 園は素直に感想を述べることで、さらに情報を引き出そうとした。 「やっぱりそうなりますか?」 「あんたの言ってるヤバそうな事がどんなだか知らないけど、昼間でしかも街中で、見つかったら即逮捕みたいな事が出来るのは、そんな手合いくらいよ。なにしろ、逃げ道は確保されてるしね」 ようするに国外逃亡の事を言っているのだが、彼らにとって「帰る」ことと同じであるから、さして重要な意味は持たないし何も失うものはない。 「あとは…」 半ばあきらめが入っていた園の横で呟いて、ゆっくり顔を向ける。 「…出来事自体をもみ消せる連中だね」 ソファにもたれ直して足を組むと、園はうなった。 「なに?もしかしてヤバいことに足突っ込んでない?」 一瞬心配そうな表情で園の顔をのぞき込むが、すぐにゆるむ。 「って、あんたの場合、ホントに駄目な時がわかってるから、心配してないけど」 園は苦笑で返した。 妙なカードが転がり込んできたが、使いどころを間違えると、たとえ先輩でも対処できない事態になることは容易に想像できた。だから、詳細は話していない。 「だから、あんたが私の下にいた頃はラクさせてもらったわ…」 寂しいため息をつくと、横目で園を見つめる。 「…でもぉ」 突然の猫なで声に園は向き直った。先輩記者の瞳はすでに潤んでいた。 園は口元をひきつらせて、ヤバッと思った。 「たまには頼ってか」 「いったい、いつから飲んでるんですか!」 腰に巻き付く先輩記者と格闘している最中、テーブル上の携帯電話がLEDを明滅させる。 うなりながら電話を取る先輩記者の姿は、心底不機嫌そうに見えたが、すでに頭の中は仕事に切り替わっている事を園は知っていた。 グラス片手に席を立つと、手振りで謝る先輩記者に微笑んでかえし、園はカウンターへ戻った。 |
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