「おかえりー」
 カウンター越しに30代後半あたりの店主が、園に顔も向けずに言う。
 視線は手元のA4用紙に向いたままだ。4つ折りの跡が残っている。
「どう?」

「宵の青山、その道を
 行くその姿は霧の中
 身一つにて想いある
 不意に聞こえる風の音
 私意はともに、はるか
 八百よろず
 人、睦まじきかな」
 抑揚をつけずに読み上げると、店主は紙を差し出す。

「素人の感想として聞いてくれよ?」
 片眉を上げて照れ笑いを隠す店主を黙って見つめる園に、差し出された紙を受け取る気配はない。
「詩という感じでもないし、語呂も悪いから唄じゃない。それに妙なところで改行されている。これは見方を変えると、文章を言葉として扱ってないともいえる」
 いつのまにかスツールに腰掛けている園はカウンターに両肘をついて静かに微笑みを浮かべていた。少々邪気が含まれた笑みだ。それは店主の読みが間違っていないことを意味していた。

「つまり、暗号だね」
 少し安心した店主はニヒルな笑みを浮かべる。
「そこで改めて読み直すと、『八百よろず』の行が目に付くけど、他の行も頭の部分が数字に変えられるのがわかった」
 例えば。と呟くと、店主は手元を返して、紙切れを自分に向ける。
「1行目は『宵』で41、次は『行く』で19って感じにね。4と1か、41かは分からないし、何に対応してるかもわかんないね」

「ご名答ー」
 ようやく、園は紙を受け取る。
 園は暗号の意味を知っている。
 それが実行されたことも知っているし、与えた影響は、いわずもがなだ。
 しかし、彼女にとってそれは材料の一つでしかなかった。職業柄、感覚が麻痺しているのかもしれない。園自身、麻痺しているのではないかと感じることが出来ないほどだった。

 手持ちのグラスを端に追いやると、店主にも見えるようにテーブルに広げる。
「マスターはマインドコントロールって知ってる?」
「こう見えても昔はサラリーマンやってたんだよ」
 いつも背筋がまっすぐで、一見堅物にみえる店主であるが、園の期待を裏切ったことがない。接点がなさそうな話題であったが、園は安心して耳を傾けている。

「営業部門主体の体育会系でね。結構きつい会社だったよ」
 言いながら、園の前でボトルを振ってみせる。
 園は軽く首を振って、まだいい。と答えた。

「そこにも新入社員研修ってのがあってね。軽井沢だったかな、山奥の保養施設に連れてかれてね。だいたい2週間くらいだったか。暗くて広い部屋に新卒生をほおりこんで…なにをさせると思う?」
 店主は自分用のタンブラーにウィスキーを手酌する。
「毎日懺悔させるんだよ。それも一日中。懺悔っていっても誰かが聞いてくれるわけじゃないよ。座椅子と小さな机が用意されてて、目の前の暗闇に独り言みたいにつぶやくんだ。何歳のとき、何々しました。スミマセンって」

 店主は思い出に浸るかのような、静かな口調だったが、カウンターの客は園だけなのでよく聞こえた。さっきの先輩の声が遠くで響いている。
「はじめは遊んでたよ。監視もなかったしね。でも、週の中くらいになってくると真面目に懺悔するやつらが出てくる。大抵はささいな悪戯くらいからね。暗いってのは思考を内向きにするよ。一度はじめると次々思い出されて、歯止めはきかない。あげく他人に伝染する。2週間後には、みんな落ち込んでたな。劣等感にさいなまれてね。泣き出してる奴は何人もいた」

 タンブラーの中身を一気に半分に減らす。店主にとって、普通のペースである。
「で、ここからが重要なんだけど、そのあと、2日間ほどみっちり話を聞かされるんだよ。会社に入って前向きに働くことの素晴らしさってヤツのね。この程度がんばれば、皆に認めてもらえる、もっとがんばれば、皆を導くことだってできる、ってね。それだけで、みんな悟ったような気になる。この会社に入ってよかったとか、ここに来るのが運命だと感じたりしてた奴もいたな」

 そこで一区切りすると、残りを呷る。
「個人という土台を全部壊して、手の届く目標を置いてやる。これだけなんだけどね」
 とぼけた口調で締めると、空のタンブラーでテーブルをカンッと鳴らして、再びボトルを振った。
「どう?」
 今度は園もグラスを空けた。
「そういう会社って結構あるよね。で、マスターはどうやって洗脳を解いたの?」
「ん?簡単だよ。心を鍛えたからね」
「どうやって?」
「酒は百薬の長っていうね」
 園はくすりと笑って、グラスを挙げた。
 店主がそれに合わせて乾杯する。

「瑠浬辺救済会も2ヶ月に一度、そういうセミナーをやってるわ」
 ここの記者たちのスケジュールをほぼ掌握している店主は、あっさりと園の話についてくる。
「ふむ、常套手段だね」
 にやりと笑ってみせる。
「マスターの話と違うのは、告悔するのにカウンセラーがついてるってところ」
「まるで牧師だね。って宗教はみんなそうか」
「もう一つが、合間に発声練習が入るってトコ」
 店主は軽く笑って、なんで?と聞いた。
「ストレス発散が理由だけど、ただ叫ぶだけじゃなくて内容は、『いろは唄』と決められてる」

 店主は興味深げに、ほう、と言うとカウンターをのぞき込んだ。
 先ほどの紙の横に、いつのまにかいろは唄のプリントアウトが並べられていた。園が用意したものだが、園の手元にはもう一枚が用意されていた。その紙はまだ折られたままだ。
 店主は気にせず、暗号の書かれた紙を自分に向けた。
「若い子は知らないんだねぇ」
「え?マスター、そらで言えるの?」
 とぼけた口調で、当然でしょう。と返すと、いろは唄を呟きながら解読をはじめた。

 
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