ざわめきが階下から聞こえてくる。
 韓国系商社所有のビルだと、大使館の人間から聞いていたが、日の出までしばらく間があるにもかかわらず、もう仕事を始めている者がいるらしい。もしかすると、昨夜から続いているのかもしれない。

 休めるときに休んでおくべきなのだろう。他の3人はそうしている。
 それに、何かから情報を得ない限り進展が望めない悩み事に、一人で時間を裂くのも無駄なだけである。
 エレベータにも非常階段にも示されていないフロアから抜け出して、わざわざ安物のコーヒーをすすりに来ているキーリクの行動には全く意味がなかった。

 パステルカラーを基調とした室内は、装飾がほとんどない代わりに観葉植物がそこかしこに配されていてた。少し緑が多いようだが全て本物のようなので仕方ないのかもしれない。
 今どき本物の植物が人工の空間でお目にかかれるのも珍しい事だが、なによりキーリクを感心させたのが、葉色の良さだ。
 年中室内でも安定しているドラセナなどはともかく、ポトスやオリヅルランなどは、おそらく日中外に移されているのだろう、葉色が瑞々しい。
 キーリクは内心苦笑する。
 かかる手間に負けて水槽植物に転向した彼女であったが、それでも2週間ほど換水できないでいる。

 キーリクしかいない談話室に人の気配がした。
 小一時間前にも、徹夜明け気味のサラリーマンが飲み物を買いにやってきていたが、珍しい来客に好奇の眼差しを送ることはあっても、気配を消すようなマネはしなかった。

「上海以来かな?」
 真横の自販機あたりから聞こえた声に、いくばくか緊張が薄れた。
「ベルファストで会ってる」
「そうだっけ。ま、久しぶり、キリー」
 キーリクは振り返ると、口元だけで微笑む。
「…そうね。久しぶり」
 逡巡したあげくそんな台詞しか出ない自分に、彼女は静かに嫌悪を覚える。

 藤色のジャケットとそろいのパンツという出で立ちに、わざわざハンドバッグまで下げている女は、一見キーリク同様、海外のクライアントか支店の人間だと、彼女らを知らない者が見れば思うだろう。
 少し観察力のある者ならば、足元の頑健なブーツに首を傾げるかもしれない。

 女はとりあえずの挨拶を交わすと、キーリクの正面にある安物のソファに腰掛けた。
「まだ客が来るっていうから誰かと思ったわ。今回も一人?」
「3人連れてきてる…」
 くだけた雰囲気で話す女に、キーリクはたどたどしく言葉をつなぐ。
「…でも、そっちは盛況そうね」
「小隊4つ分だったからな。ウチは」

「まぁ、同じ事を考えてるヤツらがいたのには驚いたけど」
 そう言って、ククッと笑う。
「それにしても、キリーを入れて4人かい?バレたら国際問題程度じゃ済まないねぇ」
 済まなかった時のことを想像しているのか、女は愉快そうに笑った。
「けど、今はそれどころじゃないだろうけどね。向こうは」
 そう付け加えて、金髪の奥の淡い青色の瞳でキーリクを見上げる。

 キーリクは眉をひそめた。

 超能力、サイキックなどと呼ばれる、一部の人間が持つ特殊能力は、ロシアを中心とする東欧諸国において早い時期から研究が進められていた。
 中露合同研究施設の存在が明るみになったのがソビエト連邦崩壊直後。ほとんどの政府機関は酔狂な研究への無駄な投資だと一笑に伏したが、米国を含む一部の機関は、研究施設から輩出される人材に対して、かなり精度の高い戦力評価を完了していた。
 その結果は驚愕すべき内容であったという。
 そういった連中にとってキーリクたちの日本入国などは、内政干渉と見なされ、即座にロシア政府へ圧力がかかってもおかしくはない事態であった。
 米軍の実験がどういったものか分からないが、それほどのリスクを背負うほどの価値があるのだろうか。

 金髪の女はまだ嬉しそうにキーリクを見つめている。

 いや、気になる部分が違う。キーリクは彼女を見つめ返す。
 先ほどの任務説明は、確かにぞんざいなものだった。
 提供された情報はメガフロートの資料と進入ルートの説明程度で、一番の障害となりうる、実験に立ち会う米軍の規模は推測ばかりで確定情報なぞ皆無だった。反してメガフロートの資料などはことさら膨大なものだったが、今回の任務で建造物全体を把握する必要などない。
 ”露払い”任務にまわされたと、ダシコフが憤慨するのも分かる。
 だが、必要と思われるものを大慌てでかき集めたという感もある。

 不意にキーリクは女から視線を外して自分の手を見つめた。
 やはり、リスクの問題なのだ。
 乗用車一台や民間ヘリ一機で移動できる、小隊に満たない、4人という外見で判断してはいけない。
 先ほどの指揮官はキーリクを兵器だと言った。
 ”露払い”程度で動かす戦力にしてはリスクが大きすぎる。これはれっきとした武力侵攻なのだ。そうとらえたほうが、しっくりくる。
 では、おざなりな任務説明も、プロセスがバラバラなのも、そうせざる得ない状況によるということになる。
 軍本部が大慌てするほど、米軍の隠蔽工作が行き届いていたのか、それとも軍内部の統制に乱れが生じているのか。何らかの障害か。

 キーリクは改めて女に目を向けた。
「何か知っているの?」
 女と出会ってから終始落ち着きの無かった瞳に鋭さが戻る。

 女は片眉をつり上げて歪んだ笑みを返す。
「さて、ね」
 愚問だった。たとえ仲間内であろうとも、守秘義務はついてまわる。女はあっさりキーリクをかわして、細身の紙タバコをとりだした。

「その、手」
 キーリクは無意識に呟いていた。ライターを持つ女の左手に感情が乱される。
「ん?」
 半ば呆然としているキーリクをよそに、女は包帯に覆われた手を目の前にかざして、呆けたように眺める。
「ああ、コレか。昨日やられたんだ」
 思い出したように答えると、女は突然笑い出した。

「そうさ、日本も捨てたもんじゃないねぇ。昨日、イカすやつに会ったよ。ありゃ軍人じゃないね。そいつはあたしの腕を吹き飛ばしてくれたんだけど、そいつも普通の腕じゃなくてさ」
 女の目にギラギラした輝きが宿る。
「サポートAIを積んでたよ。それも標的追尾用って感じだった。反応速度も異常だったな。光神経系も取り込んでるかもしれない」
 タバコの事も忘れて、何度か拳を握っているうちに、真新しい包帯から赤い斑点が滲み出してきた。
 拳に力を込めると、赤い染みは徐々に広がっていく。わき上がる興奮に女は笑みを浮かべた。
「あの男とはもう一度やりたいね」

 白い手が伏せられた。
 キーリクの両手がそれを包み込んでいた。
 女が見上げると、やはり彼女はすぐ側にいた。室内灯にかざされて銀髪がぼやけて見える。
「もう…、やめて」
 うつむくキーリクから悲しげな懇願が聞こえた。
「貴女がこんなことする必要、ないのに」

 女の高ぶった感情が急速に退いていく。
「大丈夫」
 呟くと握られた左手はそのままに、残った手で銀髪に指を通す。

「護ってやる。誰からも。傷つけようとするヤツは残らず始末してやる」
 女は喉を鳴らして、ククッと笑った。自嘲にも似たそれは、彼女の癖だ。
「うん、わかってる。簡単には殺さない」
 俯いたままのキーリクを残して、女は立ち上がる。
「そいつらに刻みこんでやる。あの時の痛みを、恐怖を、刻み込んでやる。そう、刻み込んでやるわ」

 友人というものが彼女にいたとすれば、いったい何と言うのだろう。キーリクは思う。
 その行いをとがめるだろうか、それとも同じ道を歩もうとするだろうか。
 キーリクが顔を上げた時、すでに女の姿はなかった。

 いまや、友人ですらない彼女に、これ以上の言葉は見あたらなかったし、ましてや、なにかできるはずもなかった。
 だが、離れることもかなわない。キーリクには黙って彼女を受け入れるしかなかった。
 選択肢はあったのだろう、しかし彼女ははじめから他の道を捨てていた。

「…マリー」

 夜道に捨てられた猫のように、彼女は小さくつぶやいた。

 
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