僕の願いはあっさりと受け入れられた。
 最初はイゾルデが根回ししてくれたのか、とも思ったけれど、彼女に海岸へ出てみたいと言ったその日のうちに許可を出させるには、時間が少なすぎた。
 それに今回の外出にイゾルデの姿はない。

 実験とは、ある事象を観察、記録することの積み重ねがあって初めて実験としての意味を持つ。
 存在自体が実験である僕にとって、イゾルデや他の所員が僕の側にいることは不可欠だと思っていた。
 だから、僕の願いが受け入れられたのはともかく、付き添いを伴わなくてよい、という結果ははっきりいって考えてもみないことだった。

「…突然、自然愛に目覚めたといったところかな?それとも、いつ無くなるとも知れない悠久の景色を目に焼き付けておくつもりかな?」
 移動中のエレベーター内はとかく沈黙が支配しやすい。
 耐えかねたようにイゾルデが口を開いた。

「僕が地理の話題を持ち出した時には怪しいと思ってたくせに」
 白衣のポケットに両手を突っ込んだまま彼女は微笑みを返す。
 僕の牽制は効いただろうか。

 電子音とともに扉が開く。
 4年ほど前、イゾルデと一緒に外へ出たとき以来のロビーは、あの時とたいして変わっていない。
 来客を迎えるという本来の機能を無視した飾り気のない空間に、誰もいない受付。

 閉じられた記憶から建物の青図面がもれてきた。
 忘れていた事柄を思い出す感覚とは違って、今まで僕が見落としていたかのように存在感ある記憶が突然現われる。
 恐らく僕が被験者として扱われている最大の理由なのだろう。
 かたや自分に関わる記憶は一切もれてこない。意地悪な教師を頭に住まわしている気分だ。
 とはいえ、便利とは決して言えないけれど無いよりはマシなのだろう。

 図面から推し量ると、僕に許されている行動範囲は建物全体に比べて半分にも満たない。建物の裏では、外界と中を遮断しようとさまざまな趣向が凝らされている。
 なるほど、建物から外へ出るにはここを通るしかない構造になっているようだ。
 海岸は建物の裏手に位置する。はじめはどうして正面ロビーへ連れていかれるのかと疑問に思ったが、納得した。

 突っ立っている僕の横を白衣の裾をたなびかせてイゾルデが通り過ぎる。
「まぁいいさ、こうも簡単に外出許可が出るとは思ってもみなかったからな」
 言いながら、受付の操作パネルをいじっている。
 ほどなく室内に明かりが灯りはじめた。

 彼女にとっても意外な展開だったらしい。

 所内での決めごとは、あの人の了承なくしては成り立たない。
 はじめから分かっていたことだし、僕の外出要望は仮に受け入れられたとして、イゾルデを従えた時間制限付きのものになるだろう、それでも許可がおりない可能性は高いと予想していた。
 それがこうもあっさり覆されるとは、やはりあの人の考えはよく解らない。

「なぜだろ。まえの時は許可が下りるのに半月もかかったのに」
「昨日はたまたま所長が地上に出ていたんだ」
 イゾルデの即答に少し驚いた。
 あの人が5年前から地下でなにかをやっているとは聞いていたが、所内の業務をあの人が上がってくるまで保留しているというのは冗談だと思っていた。

 ここはあの人の私設研究所だから文句を言えるものはいない。それどころか財界や政治の介入が皆無で、学閥すら存在しない環境に迎合する所員すらいる。
「といっても、所長に会えた事と、許可がもらえる事とは別だがね」
 一組しかないソファーに深く腰掛けて足を組んだイゾルデはさっそくタバコを取り出す。

 今の生活しか知らないし、他の人がどうやって生きているかは知識として持ち合わせているだけで実体験はない。
 けれども、快適な居所があり、食事に欠くこともない。加えて教育をほどこしてくれる人まで配されている環境に不満はない。むしろ標準的生活水準というものがあるのならば、その基準より優遇されていると思って良いだろう。
 仕事とはいえイゾルデなぞは十数年間、僕の面倒をみてくれている。
 僕にそれほどの価値があるのだろうか。

「数年ぶりに僕から解放されるって、どんな気分?」
「なんか表現が邪だな」
 彼女は紫煙を漂わせながら顔を上げる。やはり前髪にかくれて目は見えないけれど、口元はほころんでいた。
「朝、ダンナや子供を送り出した主婦というのはこういうものなのかもな。せいせいしたような気はするし…」
 言葉を区切ったイゾルデはソファにもたれなおして唇にタバコをたばさむ。
「って、私のことはいいからとっとと行ってきなよ。そこの廊下をつきあたれば海岸に出る」
「うん、そうする」
 僕の顔がニヤついてたかもしれない。きびすを返して廊下に向かう。

 外の日差しが、窓ガラスを通して何の飾り気もない廊下に温もりを与えている。
 反対側には細かく間仕切られた小部屋へつながる扉がならんでいて、元は病院であったことを密かに物語っている。当然、入院患者などはいない。廊下を歩いているのは僕だけだ。
 会うことが約束されている人間以外この建物で人を見ることはない。このことだけは徹底していて、日頃不自由なく生活している中でふと束縛感を覚える。

 あくびが出た。
 つまらない事に思いめぐらせていたせいか、ゆるやかな陽気のせいか。
 いや、そうじゃない。

 あの日、一度きりだったけれど今でも覚えている。
 緑豊かな海辺。
 真っ青な空と海に取り囲まれ、真っ白な少女がたたずむ。
 背格好は僕と同じくらい、黄金色の髪が潮風に舞っていた。

 海を見ていたんだろうか、彼女の好きな場所なのかもしれない。
 あんな場所に一人でいるなんて、静かな娘なんだろうか。
 笑っていたんだろうか。波音を聞きながら眠っていたのかもしれない。
 ささいな疑問と勝手な解釈を延々繰り返す。
 年相応な感受性が僕にもあったんだな、と時折感心しながら。

 経過はどうあれ、外に出られる事に僕は少なからず浮かれていた。もしかしたら、あの娘に会えるかもしれないし、話をすることになるかもしれない、そう思うと寝付けなかった。
 淡い期待なのは分かっている。それに彼女に出会えたりすると、また別の事を危惧しなければならなくなる。
 研究所の、いや、あの人の意図が介在している可能性だ。
 研究対象として扱われているから仕方のないことだし、協力することは僕がここで生活していく上での義務であると言ってよい。
 今までも突然手術台へ連れて行かれたり、何日も同じ部屋に居させられたこともあった。
 それらの行為が何を意味するか問うことはできない。被験者が実験目的を知ってしまっては正確な結果は得られないからだ。
 今回の外出も実験の一環である可能性は充分あり得た。あまりに出来すぎている。
 それでも否定したかった。実験ではないことを証明できない自分に苛立つほど激しく、刹那的に否定したかった。
 生まれて初めて味わうこの感情が僕のものではないことになるのが嫌だった。

 
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