あの日と同じ青い空の下に僕は立っていた。足元の緑がまぶしい。それよりもまぶしい存在がその先に居た。あっけないほどに。
 前に進む。
 汗がにじんだのは、気候のせいだけじゃないかもしれない。

 髪の色と同じ瞳がまっすぐ僕を見つめている。
 手が届きそうなところまでたどり着いたとき、突然彼女は振り向いた。
 彼女の柔和な表情に僕の気持ちは緩んだが、顔は緊張でひきつっていただろう。
 それでも、なんとか言葉は絞り出せた。
「はじめまして。僕はカナン、…カナンって呼ばれてる」
 小さくそろった白い歯を見せて彼女は微笑んだ。
 無垢な笑顔。初対面の人間相手にこれほど無警戒な笑顔を浮かべる事は僕にはできない。
「わたしはサライ。はじめまして、カナン」
 名前を呼ばれてどきりとした僕は、握手を返すのが少し遅れた。
 そっと握る。体力に自信があるわけじゃないけど、それでも壊してしまうんじゃないかと思った。

「じゃ、行こう!」
 弾けるように微笑んで、唐突に彼女が視界から消える。
 同時に、僕の右腕が引っ張られ、引き倒されるように前のめりになる。
 一瞬の浮遊感。そして水しぶき。気泡で視界が塞がれる。
 海に落ちたのだと理解するのに少し時間がかかった。
 それにしても、なにをしでかすんだ、この娘は。
 動揺が憤慨に変わる。僕はサライと名乗った少女を探そうとした。が、泡だらけで見えない。

 着水しても落下速度は相殺しきれずに、僕の身体はどんどん沈んでいく。
 深さはどれくらいだろう。5メートルくらいは潜っていることになるんだろうか、はじめての海は僕に状況判断すらさせてくれない。
 まとわりついていた気泡も少なくなって、ようやく視界がはっきりしてきた。
 海底はおもったより明るかった。海水が澄んでいるせいだろう、海上からの光彩が幾重も差し込んでいる。少し気分が楽になる。

 余裕ができたので周囲を見回す。
 探すまでもなかった。サライはすぐ側にいた。
 僕は彼女に手首を握られていることすら解らなかったようだ。

 サライは瞼を閉じて、浮遊感を楽しむように心地良さ気な笑みを浮かべている。漂う黄金色の髪に輝く気泡をまとわりつかせ、ゆっくりと海底に降りていく。
 こういう光景を見ると健全な男子というものは異性に対する嫌な感情を消し去るように出来ているらしい。

 淡水と比べ、海水の浮力はかなりある。
 両膝をついて安定しているサライを真似ようとしたけど、うまくいかない。片膝をおろしたところで上体が反ってしまって身体が宙に浮く。
 僕は彼女を重りにしてフワフワ浮いていた。なんだか情けない。
 サライは僕が浮遊している様が気に入ったらしく、楽しそうに眺めている。少し嬉しくなった。

 しかし、そろそろ息苦しくなってきた。
 僕は海底のサライに向き直って、上を指さしてみた。
 サライは、さきほどと変わらない笑顔のままだ。心なしか、僕の腕をつかむ右手に力が入ったような気がした。
 僕は繰り返し上を、海上を指さした。
 ニコリと僕を見つめ返したままの彼女。
 急に海水が冷たくなったような気がした。
 海中は音のない世界だけど、改めて静寂という言葉がのしかかってきた。

 突然、身体が軽くなった。
 かと思うと、驚くべき推進力で引っ張り上げられる。
 見上げるとサライがいた。やはり僕を見ていて、今度は海水越しに笑い声まで聞こえた。
 僕はジュール・ヴェルヌの小説を思い浮かべていた。

 かなりきわどいタイミングで僕は海中から放りだされた。
 大きく、何度も深呼吸する。
「サ、」
 非難の一つでもぶつけてやろうかと僕は彼女を呼ぼうとしてハッとする。自分が彼女を名前で呼ぼうとしている事に気づいて驚いた。
 躊躇していると突然、水しぶきが顔に襲いかかる。
 しょっぱい。隙を狙っていたとしか思えない。

 サライは笑いながら僕の前に流れてくると、左腕を持ち上げて、50メートルほど先の砂浜を指さす。
「競争!」
 言い終わるより早くサライは泳ぎだした。衣服を付けたままなのに、彼女のクロールはきれいなフォームだった。
 さきほどから、からかわれっぱなしで少々癪だった僕は本気をだすことにした。

 浜に着いてから、お互い呼吸を整えるのに手いっぱいで5分ほど言葉がでなかった。
 片膝を立てて傍らに座るサライの、肩から上だけが視界に入るように僕は後ろについた腕で上体の角度を調整する。
 心地よい疲労感は砂浜に寝ころぶことを要求したけど我慢する。

「さっきから聞きたかったんだけど、特別な呼吸器官とか持ってる?」
 サライはまだ肩を上下させていて、苦しそうに笑う。
「泳ぎ、得意なんだね。カナン」
「うん、好きだよ。海ははじめてだったから、最初はドギマギしたけど」
 ふいに彼女が僕に科した仕打ちを思い出す。
「というより、酷いよサライ。いきなり放り込むなんて」

 彼女は両膝を抱えて丸くなった。
 極力柔らかい口調で言ったつもりなのに、非難しているように聞こえたのだろうか。僕は素直に狼狽した。
「カナンは、何番目なの?」
 僕は、「え?」だとか「うん」だとか曖昧な言葉を返した。
 彼女が何のことを言っているのか分からなかったのも確かだが、それよりも彼女の声音が下がっている方が気になった。
 それでも、ようやくサライの質問を理解した。たしか…
「32番、だったかな?」
「あ、先に生まれたんだね。私は36番」
 膝を抱えた腕から覗き込むように僕を見つめる彼女には笑みがよみがえっていた。内心ホッとする。
 シリアルナンバーなんて久しぶりに思い出した。これが本名だとすると、”カナン”は愛称だろうか。まぁ、らしくて良いかもしれない。
「じゃあ、お兄ちゃんって呼んでいい?」
「よしてよ、早い遅いは関係ないじゃないか、僕らには」
 邪気を含んだ彼女の言葉に、にべもなく突き返す。彼女は調子にのりやすい性格なのかもしれない。

「カナンは」
 また、彼女のトーンが下がる。
 顔は前を向いていて水平線を見つめていた。
「私の事、どう思ってる?」
 胸が高鳴った。
 こんな状況でなければ、そのまま受け止めて良かったかもしれない。サライを喜ばせるに充分な賛辞はいくつも思い浮かんでいた。
 でも、彼女の言いたい事はそんな意味のものではない。

「正直、癪だよ」
 サライが振り返る。
「これは実験だよ、たぶん。もしかしたら薬物かなにかで君に好意を持たされてるのかもしれない。けど、実験はまだ始まったばかりで、君と引き合わせるだけのものかもしれない。とにかく、誰かの思惑が存在するのは確かだよ。それが悔しいよ」
 サライを見つけた時から確信していた。
 だから、彼女とは楽しく話ができれば良い、というくらいにしか考えていなかった。

「寒いね」
 自嘲を交えた彼女の言葉は、どちらを意味していたのだろう。
 上体を起こして、サライに習って膝を立ててみる。
「そりゃそうだよ、まだ海水浴には早いよ」
 そっと手を差し出す。
 嬉しそうに握り返す彼女の手は、やはり無理していたらしく、冷たかった。
 軽く彼女の腕を引く。右肩にサライの頬がふれた。
 驚いた表情だったのは少しの間だけで、すぐに彼女の体重が右肩にかかってくる。

「ごめんね」
 消え入りそうな声。
 サライは僕と同じことを考えていたのだ。
 さっきまでの突拍子もない行動はその結果だ。僕らを見ているであろう誰かの予測を、彼女は裏切ろうとしていたのだ。
「そんなことないよ。僕なんて、何もできなかった」
 僕との出会いを望んだのは自分の意志によるものだという証をたてるため、懸命に抗う彼女に比べれば、ただ焦燥にかられるばかりだった自分の愚かさに呆れ返る。
 彼女の抵抗なんて、あの人に言わせれば幼稚な行いだったかもしれない。でも懸命にやれるだけやって、その後、迷惑を掛けたかもしれない僕に謝ってくる彼女に僕は胸があつくなった。

 ただ単にサライは自分の意志で行動していることを証明したかっただけなのかもしれない。
 僕という存在は過程の中にある一要素だけなのかもしれない。
 でも僕は嬉しかった。自分勝手な解釈だと笑われても仕方ないとは思う。

 いつのまにか、サライの手にぬくもりが返っていた。

 
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