JR大阪駅御堂筋口。
 構内最大幅といわれる、このコンコースはJR以外の私鉄、市営地下鉄などとの接続数が最も多く、始発から終電まで、人波が溢れることはあっても、途切れることはない。
 御堂筋口に面した「みどりの窓口」も当然のごとく往来客にあわせたキャパが求められるわけで、他の西口や中央口コンコースのそれと比べると倍ほどの規模がある。
 それでも受付カウンター前で蛇行する行列は短くなることがない。

「JRならやってるって聞いて来たのにぃ」
「すんまへんな、沖の方がどうにも大荒れらしくて、明日まで運休が確定しとるんですわ」
 中年係員は言葉だけで謝ると、ディスプレイに顔を向け、次の問い合わせの準備に入った。
「この天気で?」
 係員が振り返ると、この界隈では見慣れない制服にジーンズ地のハーフコートを羽織った、先ほどの女子高生がカウンターに両腕をつっぷして、へばりついている。
 今朝早くに夜行バスで大阪入りした結城まなみである。
 たとえ自分の娘と同じ年頃で、あまつさえ態度に若干の問題があろうと、客であることに変わりはない。彼は笑顔を絶やさず言葉を続けた。
「いやいや、メガ・フロートって陸から100キロも離れてる言いますわな、沖の方は荒れてるんとちがいますか?」
 言いながら、まなみの手元に広げられた数枚のパンフレットに視線を落とした。

 とりあえず珍しければ、空港であろうが発電所であろうが観光名所としてしまうのは日本人の本能なのだろう。
 しかしながら、5キロ四方の平面に整然と並ぶ巨大な吸熱板や、中央に鎮座するバベルタワーのごとき変電施設は壮観ではある。雑踏に暮らす人々にとって日常の空間認識を吹き飛ばす巨大な人工建造物は、その存在だけでも魅力なのかもしれない。
 メガ・フロートの場合、着工当初からJR西日本が定期観光便を乗り入れる計画があった。後を追うように大手旅行社や地元電鉄会社が参入し、本来の業務とは異なる形で国内最大級の太陽光発電所は地元経済の活性化の一助となっていた。

「違う、60キロだよ」
 まなみは、誰も知らないような浮き島との距離を当たり前のように訂正して、パンフレットの一枚を広げる。
「それに、水中翼船って、そういうのに強いんじゃないの?」
 まなみの指先は、紅白に塗り分けられた船体を海面から浮上させ、盛大に水煙を上げて疾駆する水中翼船のスナップショットを示していた。
 船底からのびた翼から発する揚力で船体を浮かび上がらせ、航空機同様のガスタービンによる噴流推進で事実上『翼走』する水中翼船は、理論上14メートルまで船体を浮上させられる。
 JR西日本の有する全沈翼型水中翼船は、従来の半沈翼型より格段に風の抵抗にも強く、船舶屈指の運航率を誇る。
 陸路の確立が非現実的である外洋の孤島へのアクセスとしては、うってつけといえた。

「いやぁ、船の事はよく知らへんのですよ」
 冗談めかして答えてみるが、カウンターの上にのっかっているまなみの顔はあいかわらず不満そうに膨れている。
「むぅ、仕方ないな……」
 ふてくされたように言うと、内ポケットに手を入れる。
 中年係員はごそごそしているまなみを見ながら思った。まるで、こちらが悪人みたいだ。
 言うなればどこかの取調室で、次々と不利な証拠を突きつけられて尋問されているような、そんな気分だ。
 だとすれば、ポケットから出てくる何かが彼女の切り札になるのだろか。
 悪い気分じゃない。どちらかといえば楽しんでさえいる彼だった。
 おもむろに取り出されたのは、どこにでもある携帯電話だった。ディスプレイには関西地域とその沿岸の天気図が表示されている。

「ホラ、太平洋岸は快晴、崩れる気配なんて、これっぽっちもないって」
 係員は少しだけ身を乗り出して小さな液晶を覗き込むと「ああ、ほんまですなぁ」と感心した。
 実のところ、彼の感心は天気図に無い。
 現場を離れて、書類と印鑑の世界に移って久しい彼が、急遽カウンターに座ることになったのは組織の事情というヤツだが、彼は忘れかけていた現場の空気を楽しんでいた。
 だから「できない、駄目だ」の、こちらの一言だけでスゴスゴ帰っていく客は、本来なら良い客になるのだろうが、彼のプロ意識を満たすには充分ではなく、まなみのような食い下がってくる客はうってつけといえた。

「だからさ、なんとかなんない?貨物船とかでもいいんだけど」
 彼を喜ばせたのは、それだけではなかった。
 個人的な事情と世間の常識をはき違えて、ひたすらに我を張る「やっかいな客」でも、彼は満足できたのだが、まなみは、そこからさらに妥協点を見いだそうとしている。そのための材料も用意していた。
 ようするに「今時の若い者にしては……」と彼は感心したわけだが、それと同時にここまで熱心にされると、なんとかしてやりたくなってくる。
 一介の受付係ならどうにもならないことだが、彼本来の職権があれば、なんとかならないでもない。

「いやぁ、お嬢さんの熱意はわかるんやけど、これだけは何とも」
 にもかかわらず、思いとは裏腹な言葉を返す。
 職権濫用を戒めるプロ意識と、どうにかしてやりたいと思うささやかな倫理観の妥協点としては、彼女にもう一押ししてもらいたいところだった。

 ふいに携帯のアンテナがせわしく明滅しだした。
 まなみは携帯を睨み付けるとそのまま顔を上げて、「また来るからねっ」とチケット売場とはまったく不似合いな捨て台詞を残し、小走りで出ていった。

 もう少しだったのに、と内心歯がみする。
 ただの負け惜しみとは違う。まなみにはそれなりの勝算あってのことだった。
 この日、早朝から大阪入りしているまなみは、午前中、旅行社や案内所を駆けずり廻ったおかげで、メガ・フロートへの観光便が絶望的だということを充分承知していた。
 それでも諦めきれない彼女は、新たな打開策を求めて大阪駅に来ていた。
 どのみち海路しか選択肢がないと考えていたまなみは、その中でも最大規模のJRにアタリをつけたというわけだ。

 駅長室の前で先ほどの係員とすれ違ったのは単なる偶然でしかなかったが、彼のネームプレートに『役務次長』の文字を見つけたのは彼女の功績といえるだろう。
 幸いにして、その男はみどりの窓口のカウンターに座った。
 まなみは、自分の順番が彼にあたるよう計算して受付待ちの列に並んだのだった。

 まなみが彼に目を付けた理由は2つある。
 たとえ相手に彼女を助ける気持ちがあったところで相応の権限を持っていなければ意味がない。『役務次長』という、どういう役職なのか彼女には全くわからなかったが、とにかく偉そうな肩書きを持っているのであればなんとかなりそうだ、という目算。

 もう一つは、これは、彼とすれ違った時点でまなみは確信していて、なおかつ彼と話すにあたり、最もアテにしていた要素なのだが、八方塞りな彼女の状況を彼は、”いかにもどうにかしてくれそう”な人物だと判断したからだ。
 根拠なぞ全く無く、彼女の勘でしかない。
 初対面の相手に持つ、いわゆる『第一印象』というヤツと、付き合いを重ねてからの印象は大概異なる。
 ごく希に、一言二言会話を交わしただけで互いの気心が知れてしまう、俗に『ウマが合う』と言われる感覚があるが、まなみの勘はそれに近い。
 ただまなみの場合、互いに、ではなく一方的に相手の本質に近づいてしまう。それも気が合う合わないは関係なく、どのような相手であっても、だ。
 これは、ささいな仕種や癖、口調をこまやかに観察し、それらを関連付けて相手の人間像を構築する鋭い洞察力によるのだが、まなみ自身意識していない。勘というよりある種の才能である。

 だから、先ほどの交渉はうまくいっていると言えた。少なくとも彼女にとっては。
 直接メガ・フロートに結びつかないまでも、なんらかの情報を得る自信はあったのだ。

「もしもし!」
 勢い、苛立たしげに電話に応えてから、まなみは自分の失態にはっとする。
『まなみ?』
「あ、お母さん……」
 誰からの電話であろうと出てはいけない状況だというのは理解していたはずだった。日常で染みついた条件反射というやつは恐ろしい。
 内心舌打ちするが、出てしまったものは仕方がない。すぐさま通話を切る手もあったが、変に心配させると、ややこしい事になりそうなので、それはやめた。

『あんた、今どこにいるの?』
「え、大阪だけど?」
 一瞬の沈黙の後、「おおさか!?」と裏返った声が返ってきた。
「でも、大丈夫だって、あさってには帰るはずだから……」
 極力柔らかい口調で、間違っても家出だとかを想像させないように答えるまなみの脳裏に自分の言葉が跳ね返ってきた。
 ……帰る?
『まなみ?』
 さっきまで母親をどう言いくるめようかと思案していた意識が徐々に、その事から関心が無くなっていく。
 ……帰るって、何処へ?
 何か話している母親の声はすでに雑音でしかなく、まなみは今、唐突に直面した問題に対処すべく、「今、移動中だから」と言い捨てて母からの電話を無理矢理切った。

 電源まで切った携帯をバックパックにしまい込んだまなみは、思い出したように顔を上げ、周囲を見回す。
 みどりの窓口から出てなんとなく人混みに流されてきたまなみは、いつのまにか駅から出ていた。
 TVで見たことのあるカウントダウン付き歩行者信号が見える。
 青になっているにもかかわらず、目の前の横断歩道には渋滞中の車両が止まっていて、その間をぬうように人々が道路を渡っていく。
 雑踏に混じって耳に入る話し声は、明らかに友達のソレとは違う発音だった。

 ふらふらと、どうにか人の流れをすり抜けて近くのショウウィンドウにたどり着いたまなみは、壁に背を預けてかがみこんだ。
「あたし、こんな所でなにやってるんだろう」


 
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