この日、関西地方は全般的に快晴であったが、気温は平年並みの低さなので道行く人々は一様に冬の装いを弛める気配はなかった。 しかし車中となれば話は別で、冷気がカットされた純粋な陽光は、まどろみに身を任せるようなゆっくりとした時間を演出する。 市内の万年渋滞にまきこまれ、外の景色に変化が無くなってしまえばなおさらである。 『ま、眠くもなるわな』 ロシア大使館駐在所付きの中年運転手はルームミラーに写る、微動だにしない乗客4人を見ながらそう思った。 『にわかには信じられないな……』 キーリクたちは、ほとんど声帯で会話することがない。仕事の話になると皆無といってもいい。 テレパスという通信媒体は未だ原理が明らかではなく、盗聴することもできないからだ。 『……戦時下でもあるまいに指揮系統の混乱なぞ』 そもそも軍隊は、そういった有事に備え訓練されているべき組織であるから、命令系統のスピードと頑健さは官民問わずどの組織よりも優れていなければならない。 正規の教育を受けていないとはいえ、ヤンにもその程度の知識はあった。 『昨日、私たち以外に居た客ね、一昨夜の米軍テロに関わっているわ』 『陸軍がか?』 キーリクの淡々とした答えにヤンの声が気色ばむ。 『平和ボケしているとはいえ、もう公安は動いている。明日中には大使館に手が回るでしょうね』 『ちょっとまて、どこでそんな情報仕入れたんだ?』 昨夜からおとなしかったダシコフが口をはさんだ。 『まさか……ソーニャを使ったのか?少佐』 『……』 『大尉、TVくらい見なさい。ここは地上で最も規制の緩い国なのよ』 なだめるようなキーリクの後を継ぐようにヤンの失笑が聞こえた。 『酒ばかり飲んでいるからだ』 嘲るようなヤンの口調に一瞬ひるみつつも、ダシコフは反撃する。 『はっ、おまえこそ、そのTVとやらはどこで見てやがったんだ』 『無粋なヤツだ。プライバシーという言葉を知らないらしいな』 『中国人はもっと慎ましいって聞いたぜ』 『……ソーニャ』 しばらく二人のやりとりに沈黙していたキーリクが呟く。 『はいはーい』 静寂の車内に突然、悲鳴が二つあがった。 すっかり昼寝を決め込んでいるものと思っていた中国人とロシア人の奇矯に運転手は慌てて振り返る。 二人とも頭をかかえて仰け反っている。 ロシア語はおろか、英語すら話せない中年運転手は黙って成り行きをみまもるしかなかった。 『うわ、痛そう』 まるっきり他人事で、笑いすら混じったソーニャの言葉は当事者である二人に届いていたが、彼らにそれを意識する余裕はなかった。 しばらく声も出せずに仰け反っていたダシコフが急に上体を起こしてそのまま前屈みになる。 手探りでビニール袋を掴む。 『……うぅ、人んちで喧嘩するからだよ』 先ほどとは一転して腰の引けた口調のソーニャの声が響く。 脳は幾重もの機構によって守られている。二層構造の頭蓋骨による耐ショック、内殻の中に充填された脳漿による衝撃緩和、頭髪も一助となっている。 だから脳は直接刺激が与えられる構造ではなく、例えAAサイズの電池並の電流であっても耐えるようにはできていない。 彼女もその痛みを充分知っているので、命令とはいえ罪悪感がつのる。 ささいな言い争いの代償にしては大きすぎる罰だ。 そういったキーリクの極端さに反感が湧かないでもない。 しかし例え上官に逆らおうと、脳ミソに電流を流そうと、彼女の判断は間違っていない。そういう気性なのだろう、と納得する。 『ソーニャに情報収集させているのは今朝からだ。現場対応の範疇だと思っている』 『あっ、うん、やってるよ』 淡々としたキーリクの言葉に慌てて応えた。 今自分がさぼっていたのがバレたとしても、キーリクが怒ることはないだろう。 脳接のホストと、SISのまねごとの両立は骨が折れるからだ。理屈では分かっていても、やはり狼狽してしまう。 キーリクの指導は上々といえた。 ソーニャは、脳内に構築した仮想空間のプログラムからもう一方のプログラムに意識を切り替える。 こちらは仮想空間のように暗い空間ではなく、さまざまな色彩が錯綜している。 彼女にとって電気は見えるものらしい。 正確には視認できるというわけではなく、感覚的に見えるのだそうだ。 それを生体プログラムに理解できるパターンに変換したものが、めまぐるしく行き交う色彩の正体だ。 受け取った電気信号をプログラムは、地表をゆきかうほとんどの通信フォーマットを網羅しているといわれる自身のライブラリと照会を繰り返し、解析してゆく。 解析プログラム自体は自動化されていても、そのログをチェックするのはソーニャである。 毎秒数TB単位で吐き出されるログ全てを網羅するわけにはいかないので、民間に解放されていないフォーマットなど出自の怪しいログに絞って検索していく。 「ん、あれ?」 現実世界から聞こえるソーニャの声にキーリクは眼を開けた。 さして困った風でもなく、ソーニャは呟く。 「これって、ここのことかな」 |
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