昨晩から二度にわたって嘔吐するハメになったダシコフは、すこぶる気分が悪かった。
「なんだこいつらは」
 散開していた武装警官が2チームに集結しつつあるのが見て取れる。
『それは私が確認する』
 頭の中を流れるキーリクの声に彼は笑みを浮かべた。
「なら、始末していいってことだな」
『ウォームアップにはいいだろう。だが、手早く済ませ』

「Адам、Анания、Авраам、Иисус……」
 キーリクの指示を聞き終わる前に、ダシコフは呪文のように小さく呟きはじめると、無造作に一歩踏み出した。
 呼応するかのように正面の武装警官が発砲を開始し、その声はたちまち打ち消された。

「……Исаак、Исаия、Ева……」
 脳裏に刻まれた言葉を暗唱する。
 言葉自体に意味は無い。彼がソレに目覚めたころから行っている儀式のようなものだ。
 昂ぶる気持ちを落ち着かせ、一点に集中させる。

 ダシコフ正面の警官は、無駄とわかりながらも、断続的に発砲しつつ、じりじりと後退する。
 彼に向けられた銃弾がなんらかの力場によって跳弾しているのは、明らかだった。
 ダシコフの2mほど手前で、9ミリ弾が無理矢理軌道を変えられてスパークをあげている。

「……Моисей、Иаков、Иуда、Иосия」
「モーゼ?」
 距離にして5mほど、ダシコフの声が警官に聞こえた時、一瞬視界が陽炎のように歪んで、左端に見えていた同僚の上半身が消えた。
 残った下半身の背後にある車両が搭乗者ごとひしゃげて、横滑りする。
 血煙を巻き上げながら、すぐに反対車線の車両にぶつかるが、勢いは止まらない。
 玉突きのように押し出された車両が路肩に乗り上げる。

 状況把握はとりあえず保留して、反射的にその場から散開した警官たちは、各々車両の影に身を落とし、目標を確認する。
 彼らの予想とは裏腹に、ダシコフは先ほどの位置から動いていなかった。
 戦場のセオリーを無視した彼の所作は無謀でしかなかったが、シャーシを剥き出しにしてオイルの焦げた煙をあげるスクラップを見る限り、それは不気味な存在感に変化する。
 MP5をフォアグリップに構えつつ、リーダー格はレシーバーにスイッチを入れる。

「C2、急げ、あまり保たないかもしれんぞ」
 短いノイズが聞こえ、返答があった。

『Да、Вот как?』
 聞いたこともない女の声、ロシア語に疎い彼でも邪気を含んだ嬉しそうな声音で何を言われているのか想像はついた。
 軍用とは言わないまでも隠蔽性の高い警察無線に介入できる彼らに脅威しつつも、視線はダシコフに向けられたままだ。
 視界にまた陽炎が見える。
 それは部分的なもので、ちょうどダシコフと警官の間に漂っていて、左右にゆっくり揺れている。
 もともと陽炎は景色をゆがませるものだが、目の前を漂うソレは視覚的に分かる勢いで密度を上げていく。
「……誰だ?」
 その問いには目の前の光景も含まれていたかもしれない。
 今や陽炎の輪郭ははっきりしていた。タマゴ型で所々にいびつな凹凸、頂点からぱっくりと大きな切れ目が入っていて、なにか、爬虫類の頭部に見えなくもない。
 しかし、爬虫類の何に似ているのか特定できない。頭部だけで乗用車一台分の爬虫類なぞ彼は見たことがない。
 ソレがゆっくり浮き上がる。
 さながら鎌首をもたげた大蛇のようだ。

『アタシはソーニャ、んで、それは同士ダシコフくんのペット、重力のアギトってんだって。はじめまして』
 リーダー格の視界を瞬間的に陽炎が広がる。

『じゃ、さようなら』

 黒スーツの『元』公安を車から蹴落としたSAT指揮官はフロントガラス越しに広がる異景にしばし呆然としていた。
 渋滞のせいで、すし詰め状態の車両の山からクリスタル細工の大蛇が姿を現した。
 近くの歩道橋を凌ぐ高さまで延ばした鎌首を、時折足元へ急降下させ、車両を跳ね上げている。
 自重1トンを越える鉄塊がオイルや黒煙をまき散らしながら宙を飛び、何層にも塗り重なった路面のアスファルトをかき剥がしていく。

 どのみち車両での移動は叶わないと判断したSAT指揮官は歩道に降りて大蛇を観察する。
 どういった理屈で蛇が出来ているのかはともかく、攻撃手段が鎌首のようなものによる打撃だけのようで、なおかつ打撃の間隔が長い。
 つまり動きが鈍いのだ。
 だとすれば、蛇を操作しているであろう本体の守備は手薄なのではないか。

『なるほど、ある程度の予備知識はあるということか』
 聴覚を介さず、頭に直接響く女の声。
 それと同時に、彼の兵士として研ぎ澄まされた感覚が、唐突に現れた視線を察知する。
 殺気を感じないにしろ、この場でぶしつけな視線を投げかけるなぞ、味方ではありえない。
 姿勢をそちらに向ける動きに連動してガバメントを握る腕が跳ね上がる。

『それに、思考も柔軟だ』
 レザーのロング・コート、大きめのサングラス、グレーのルージュ。
 長身で黒ずくめの女が車一台を挟んだ射線の先に立っている。
 目標を確認した視覚情報は、ほとんど脳を介さず腕に電気信号を送る。

 例えば、蹴つまずいた時、反対の足が身体を支えるため倒れる方向に差し出されるような。
 それと同じくらい、この瞬間の動作は、彼の中に染み込んだ動作だった。
 胸元に向けて2発。
 反撃を予測して半身ずらしながら、拳半分ほど上に射線を調整し、目標の頭部に狙いを定める。
 身体の移動が完了すると同時に引き金を2回引く。無遠慮に銃口からマズル・フラッシュが飛散する。

 白い炸裂の向こうに、銀髪の女の顔が一瞬だけ見えた。
 大仰なサングラスで覆われている分、口元の表情が目立った。
 グレーのルージュが薄く横に延びて、裂け目から歯がのぞいている。
 それは笑っているように見えた。


 
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