「!」
 目の前を、何かがすごい勢いで通り過ぎる。
 ついそれを目で追ってしまったのは、それが本来そんな勢いで飛んではいけないものだったからだ。それは周囲の人間を蹴散らし、赤レンガの壁にぶつかる。
 普通なら重力に従って路上に崩れ落ちるところだが、そうはならず、まるで押しつけられているかのように壁に張り付けられている。

 それは物々しい装備に身を固めた警官だった。町中で見かける制服ではなく、TVの特番などでしか見ない武装警官だったので、まなみは警官だと理解するのが遅れた。

 呆然と警官を眺めるまなみ。
 唐突に、警官の右腕が持ち上がり、間を置かず手にした拳銃の引き金が引かれた。
 二発、三発と発砲。
 それを合図に周囲の人々が咳ききったように四方に離散する。

 その場に屈み込んだまなみは、スカートがはためくのも気にせず、赤レンガの壁に向かって転がるように駆け出した。
 射線に対して最も安全な位置は射手の傍らだ。
 本能的に安全地帯を嗅ぎ分けたまなみは、警官の足元に転がり込んだ。
 勢い余って背中から壁にぶつかる。背負ったバックパックがクッションになったようで、まなみはすぐに視界を取り戻した。

 警官の発砲は乱射ではなく、一方向を狙ったものだった。騒乱に入り乱れていた群衆が散り散りになって、その方角だけ、ぽっかりと空間ができていた。開けた歩道の向こうに人影があった。
 黒いロングコート姿に、グラスを掛けた女性だ。銀髪を揺らしながら近づいてくる。

 まなみはその女性の違和感に釘付けになった。
 銀髪女性は普通に歩いているように見える。なのに、そのペースを上回る早さで彼女が近づいて来ているように『見えて』いるからだ。
 どこかで観た特撮映画のように、宙に浮いて路面を滑っているわけでも、小刻みな瞬間移動を繰り返して空間を跳躍しているわけでもない。
 銀髪女性の動きはちゃんと連続していて、視覚的に問題ないのに、けれど理性は納得していない、という不思議な感覚にとらわれる。
 気が付けば、当の女性はまなみの目の前に立っていた。
 まなみの位置からだと、張り付けになった警官を見上げている銀髪女性の横顔が見える。

 不意に銀髪女性の瞳がこちらに向けられた。
 サングラスのフレーム越しからのぞく、色素の抜けたグレーの瞳は、もの珍しさもあって薄気味悪くみえたが、視線そのものからは敵意とか恐ろしさは感じられない。それどころか、この異常な状況とは場違いなくらいに、まったくもって普通だった。
 そのグレーの瞳が少し見開かれる。街中でばったり知人と出会った時のような、軽い驚きの表情。
 そして、一歩後ろに下がる。
 まなみは思わず立ち上がってしまった。
 身なりを正すのもそこそこに、「どうも」と銀髪女性に会釈すると、彼女と警官の間を小走りで通り抜けた。


 
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