さっきの声はあの少女か。キーリクは制服姿にハーフコートを纏った少女の駆け去る姿を見送りながら思った。
 おそらく少女は「どうも」という台詞を声帯を介さずに言った事に気づいていないだろう。

 キーリクは、誰にでもこういった能力が備わっていると考えている。
 ただ、使い方をマスターするには少々コツが必要で、手足を動かすような先天的な能力ではなく、むしろ泳ぎ方を覚える時のようにひどく感覚的で、方法を言葉で説明するのが難しい類のものだから簡単にはコツを掴むことができない。
 仮にコツをつかめたとしても、泳ぎ方とは違って、能力の結果が目に見えたり、聞こえたりといった物理的な結果として現れない。物の変化として現れないので能力の存在を確認できず能力の覚醒すら気づかないケースが多い。それは結局、能力が必然ではないからだ。そのような力がなくとも生きていくのに不自由はないのだ。
 キーリクは、磔になった警官へ視線を戻す。
 逆に自分を含む能力に覚醒した者は必然として、つまり特別なわけでもなく、人が五体をともなって生まれてくるように普通に備わるものなのだと考える。

『……さて』
 先程とおなじく、聴覚を介さず、警官の脳に直接話しかける。
『見たところ警官のようだが……まぁ、そんなはずもないか』
 近年、カウンターテロを目的とした装備の充実、それにともなう人材の輸入など、この国における警察力の増強は、キーリクにとって真新しい知識ではない。そして、通常の警察力が人口密集地域で強行におよぶなどありえないということも真新しい知識であるはずもなかった。
 この警官が先程見せた戦場慣れした判断力から、国内の警官とは違い、ある意味でプロだと判断したキーリクは、尋問による情報収集をあきらめていた。

 目を閉じる。
 ゆっくりと、一度だけ深呼吸すると、意識を、過去に、遡らせる。

 鮮やかな緑、ほのかなコーヒーの香り。
『もう、……やめて』
 狭い空間、わずかな高揚。
『私には、その覚悟が、ある』

 青い瞳、慟哭。

『グルツヌイの悪魔、だってさ、面白いこと言うもんだね、キリー?』
『少佐? この私が?』

 霞む風の音。
『ここは、閉鎖される』
『キーリク、元気でね。……もうあきらめたりしないで』

 暖かい暖炉の心地よさ。
『この子はソーニャ、いろいろ教えてあげてね、キーリクはお姉さんなのですから』

『もう、なにも怖がることなんてないんですよ』
『なにを言います! この子は生きる喜びすら知らないというのに!』

 赤い。
『……なんて……ことだ』
『……悪魔……』

 ただ、赤い。
『消えろ』
『消えろ消えろ消えろ消えろ、消えてしまえ』
『やめてキリー!』

 なにかがカチリと繋がる。
『おめぇのオヤジはヒトゴロシだ』

 さまざまな男の声。
『食ってくにはしかたなかった、とは言わない』
『おまえの親父も、儂もそうだった。だからおまえも同じだ』
『鉛弾食らって、痛てぇ、いてぇってわめきながら死んでいくだけの、つまんねぇ生き物だ』
『だが、のたれ死にだけは許されねぇ。畜生には畜生の誇り、切り札を忘れるな』

 乾いた埃の匂い。
『狙撃手にゃ向いてねぇな。……が、まぁ上出来だろう』
『早く出ろ、ここはもう駄目だ』
『とっとと掃除しちまえ』

『ジャップの飼い犬になれってか?』
『畜生には畜生の誇り、切り札を忘れるな』
『めでてぇな、今殺らなくてもコイツみてーのはいつか殺る事になるだろーが』

『死人も出ねー、駄賃もたんまりもらえる、こんな結構なご身分を捨てて悪魔サマとやり合おうっつーのに、これだけか?』

『公安が邪魔だな、さっさと始末しておくか』
『ここは、ロケーションとして最適だと思いませんか?』
『畜生には畜生の誇り、切り札を忘れるな』
『笑えねぇ、アノ化物はなんの冗談だ?』

「畜生には畜生の誇り、切り札を忘れるな」

 時間にして数秒、警官のつぶやきに呼応してグレーの瞳が見開かれる。視線の先には、磔けられた警官の表情がある。キーリクは、それを真似て静かに笑う。
 同時に警官の身体が弾けた。腹部を中心に爆散する。瞬時に拡散する霧状の血潮にまぎれて、数千発にもおよぶ直径5ミリの鉄玉が放き出された。鉄玉は路面を砕き、乾いた土煙がたちまち沸き上がり、半径数メートルの視界がなくなる。

 対人地雷でよく似たものがある。爆発と同時に散弾をバラ撒き、起爆させた人間だけでなく周囲にも被害をおよぼす。

 ゆっくりと視界が戻ってくる。キーリクが先程と変わらぬ様子で立っていた。目の前で爆散した男の血糊すら浴びていない。散弾を浴びたであろう犠牲者の悲鳴や怒声が土煙の中から聞こえる。

「宗教か……」
 静かに呟いて、主戦場である駅前に身をひるがえす。さきほどまで猛威をふるっていたダシコフの大蛇が消えている。
 キーリクは語気を荒げた。
『どうなっている? この憎悪の塊はなんだ』
 即答したのはダシコフだった。
『少佐、一部の民間人が統率されて接近してくる』
 彼はすでに一般人と思わしき姿の十数名に取り囲まれていた。

 その動きに気づいたのは、警官隊との衝突が終息しはじめたころだった。どうみても無防備な一般人が複数、まったく別の方向から自分を中心に等距離から近づいてくる。
 民間人にカモフラージュした別部隊か、と一瞬思考を巡らせたダシコフだったが、すぐに一蹴した。
 黒煙まみれの残骸や死体に一瞥もくれず、ゆっくりと、だが確実にこちらへ向かってくる様は異様でしかなく、彼らの目に宿るシンプルな憎悪は、理性の存在すら疑わしかったからだ。

 以前、よく似た場面に遭遇しているダシコフは、キーリクからの返答を待たずに対応した。
 正面から近づいてくる男に集中する。すぐさま大気の一部が圧縮され、打撃力となって男の片足を折った。片方の支えを失い崩れ落ちる男は、しかし苦痛に悲鳴を上げることもなく、使えなくなった足の代わりに両肘でほふく前進をはじめる。
 ダシコフは渋面ながらに悪態をついた。
「クソ、本物の殉教者だ。嫌な展開だ」
 周囲を見回す。何事もなかったように、変わらぬペースで一般人数名が近づいてくる。

 命を賭して教義に殉ずるのが殉教者である。しかし、「命を引き換えにする覚悟」を必要とする事がすでに、殉教者本人の心と教義との間に距離があることを意味している。
 彼が言う、本物の、とは本当に命を捧げることに躊躇しない者を指すが、なんらかの方法で生命の存在すら忘れさせられている者も指していた。さらに殉教といいつつも相手が宗教家であるか否かも関係なかった。
 彼は、この状況を揶揄していた。

『能力者があらわれると厄介だぞ』
 ヤンの声が割り込んだ。
『そうだ覚醒するヤツがいるかもしれねぇ。警官どもは始末したんだ、撤収しよう……!』
 ダシコフも賛同する。
 その時、ダシコフは視界の隅に鉄橋に立つ人影を捉えた。ソーニャでないことは背格好ですぐわかった。
 その人影は、本来ありえない揚力で宙に浮いたかと思うと、音もなく鉄橋から落下していく。
 一瞬の沈黙。
 そして、鉄橋のたもとから数十、数百の怒声が地鳴のように響いた。

 瞬く間に鉄橋に人が群がる。
 思わずダシコフは凝視する。人だかりはみな、鉄橋によじ登ろうとしているようだった。
 無心に、無遠慮に、盲目的に、他人の背中を踏み台に、小さすぎる突起を足場に、ただ目標に向かってよじ登ろうとあがく。

 駅のプラットフォームから線路ぞいに向かってくる何人かを、さきほどの人影と同じく弾き落としたソーニャは、群がる人垣を見て引きつった笑いを漏らした。
『……なんなの、よ』

 誰かが掴んだ送電線が、火花を散らしながら切れる。送電線を掴んだまま落ちる人に巻き込まれた何人かが、火花を散らして落下する。
 断線を感知したセンサーがすぐに送電を止めるが、残留した電流が鉄橋を一瞬だけ伝播して、ソーニャの足元を走った。
 鉄橋を媒介に何人かが感電して落下する。
 ソーニャの顔や腕に青白い小さなスパークが走る。だが彼女は気にした風でもない。
 そんなことよりも、人々が落下していく様に釘付けになっていた。目に涙すら浮かべている。

『……こんなのヤだ』
『離脱しろっ』
 ソーニャのつぶやきにダシコフの指示が重なる。彼は鉄橋に群がる群衆よりも、鉄橋を渡りきってすぐのプラットホームでざわめく人影が気になっていた。

『あんな……なんで簡単に……』

 普段の彼女なら、眼下の異様を愉快に笑いとばしてすらいただろう。彼女らが必要とされるのはだいたいが戦場であったし、そんな極限状態のただ中ですら余裕をもって睥睨できてしまえる彼女にとって、目の前の生き死にでさえ茶番でしかなかった。だが、今のソーニャは動けないでいた。
 彼女は気づいてしまったからだ。
 自分に群がろうとする人々が、実は自分を見ていないということに。ソーニャを経由して彼女の後ろの何かに向けられた剥き出しの憎悪は、偽りでも訓練されたものでもなく、ひたすらに人間臭い。

 ソーニャが立ちつくしている間にも、プラットフォームを飛び降りた何人かが駆け寄ってくる。鉄橋の線路を踏み外して、落ちまいともがく人々を足蹴にしながら。
『排除しなさい』
 キーリクが命令する。
 ソーニャは茫然自失ぎみに呟いた。
「……なんでこんなこと……続けないといけないの」

 例えば、移動中のとなりを併走する自家用車の車窓に、あるいは宿舎の窓から見える建物の明かり一つ一つに、自分と同じくらい時を重ねてきた人々を見る。 ただの風景でしかない人々が、ふとしたきっかけで等身大の他人として映るとき、それらの積み重ねを容易に断ち切れる自分の能力とそれを行使するしかない立場に恐怖する。

 暴徒と化した一般人が目の前に迫っている。
 ソーニャは動けない。
 本来こういう場面では、その存在を無視して彼女は行わなくてはいけなかった。
 つまり彼女は命の重みに束縛されていた。

『傍観すら例外ではない』
 ソーニャへ突進する数人が唐突に後頭部から血煙を吹き出す。そのまま脱力、頭から地面につんのめる姿勢で倒れるとピクリとも動かなくなる。
 遅れて視界に入ってきたのはキーリクの長身だった。彼女らにとって瞬時に場所を移動することなぞ造作もないことだ。
 彼女は声帯をとおして言葉を続ける。

「なぜなら、その場に居合わせた者に無関係な者などありえないからだ」
 ホームを降りてやってくる暴徒も同様に血煙を撒き散らしながら次々倒れていく。線路上が一掃されると、ホームにも赤い煙がひろがる。
 殴られたり、切り裂かれたりといった外部からの力ではなく、あたかも元からそういう仕組みだったかのように頭部が炸裂する。
 キーリクが能力を使っている。ソーニャがすぐに理解できたのは今まで彼女と共に行動した経験からである。他人の意識に触れ、殺意を分別し、意識を溯り、それを殺す。おそらく暴徒と化した者だけが殺されている。キーリクの能力であれば可能だ。
 当の本人は、ソーニャに背を向けたままの姿勢で指ひとつ動かしていない。風が彼女の銀髪を揺らす間にも暴徒であった人々が倒れていく。本人が気づくより早く、寸分の狂いもなく命が絶たれていく。
 虐殺というには、あまりにあっけない。

「敵か味方か、選択は安易で、安息は幻想に過ぎず、たとえ銃火がなくとも、現実として在るのは……」
 背を向けて立つキーリクを境に向こう側は、みるみるうちに真っ赤な世界へ変貌していく。
「……闘争だけだ」

 ソーニャは視線に気づいて振り返る。
 鉄橋をよじ登って来れた者がいたのだ。
 身体の大きさゆえに大人では難しい障害を、唯一乗り越えたのはロー・スクールに通うか通わないかといった年頃の少年だった。
 絶句するソーニャの耳に抑揚のない声が届く。
「例外はない。敵対するものは全て殲滅する」
 その瞬間、駅一帯が赤い靄につつまれた。


 
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