唄は止んでいた。唄わなくなったわけではなく、唄えなくなっていた、誰も。
 この世に正義は存在しないという。それはそうだと思う。ならば悪も存在しないのでは、とも思う。現実とはそれほど明確に分けられるものではないのだ。だが、この訳の分からない圧倒的な力は、――この、なにもかも台無しにしてしまう危うい力は、これこそ悪なのではないか、と思うことがある。

「恐ろしいな」
 ヤンがつぶやく。
 戦況の収束を確認するため周囲を散見しながら彼は、キーリクたちと出会った時のことを思い出していた。

 彼らの所属する中露合同施設は、両国の独自研究を共有するべく設立された。各々の最新の研究成果が比較検討されるそこは、両国施設の上部組織に位置づけられた。
 閉ざされたエリート社会の両国であるから、それは自然な結果といえた。
 ともあれ、ロシア側の研究成果である三人と出会ったのは中露合同施設に移籍してからであった。
 合同施設では「実用レベル」の成果が求められる。総合能力よりも素養が見受けられる能力を特化して開発される。
 そのため、ヤンと類似能力を持つダシコフとは、施設内で会う機会も多かった。

 研究成果は最終的に結果が求められる。ようするに軍事作戦での運用だ。
 電子戦特化と思われるソーニャとは、たびたびセットで配備された。作戦行動を共にするとはいえ、彼らの特殊性は通常部隊に組み込むには難しく、むしろ遊撃隊として運用されることが多い。そのためには実行制圧力のみならず、それをサポートする情報収集能力が不可欠であるからだ。
 ただ、キーリクとは今回が初見であった。
 施設内で彼女の名を知らない者はいない。それほどに性能が飛びぬけているらしく、実際、キーリクだけが常に単体運用されていた。
 それゆえに、彼女の能力を知るものは少ない。

 人と人は、「共通意志」というもので繋がっているのだという。
 それは生まれた時から持ち合わせているもので、例えば、腐臭に吐き気を感じたり、足元の血だまりに嫌悪を感じたり、だれもが普通に、なおかつ誰もが同じように感じる事柄だという。
 感性だけではなく、どの宗教でもみられる、善悪といった二極化思想などもあてはまるかもしれない。
 社会習慣や礼儀作法などによる後天的な共通化と判別は難しいところであるが、たしかにそういったものはある。
 先天的な価値観とでも言うのだろうか。

「морской лихнис」
 生まれ持った規則、原初の理、とでも言うのだろうか。ソーニャもダシコフもそう呼んでいた。
 初めて耳にしたときは訝しんだものだが、今はそれなりに受け入れてしまっていた。

 重要なのは、時と共に変化するということである。
 生まれながらに刷り込まれた価値観であれば同じように変化はしないし、変化が異なればそれは共有されていない事象だということになる。
 だから繋がっているのだという。
 大樹の幹を共通意志だとすれば、幾重にも分かれて伸びる枝葉が、共通意志をベースに独自性を積み重ねた個性というわけだ。
 だが繋がっているとは言え、幹を経由して互いに行き交うことが出来るかといえばそうでもない。幹は共通の価値観や思想の集まりであり、故に無個性である。個性を持ちえないその領域において自身を認識することなぞできないからだ。
 そのような構造だから、普通は意識することもないはずである。
 しかしキーリクは、自身の個性を保ちつつ幹までさかのぼることができるのだそうだ。
 正確には、共通意志とのつながりが深いということらしいが、自身の能力すら原理を理解できていない彼はよくわかっていない、というより考えることをやめていた。思い悩んだところで、事実は変わらないからだ。
 とにかく、日常においても他者の意志を感じ取れたりするということらしい。
 彼女とて完全に制御できないらしく、ふいに飛び込んでくる他者の意識は悩みの種となっているわけだが、任務ではあらゆる分野に有効である。
 さきほど警官におこなった尋問がそうであるし、彼女の持つ別の能力と併用すればその幅はさらにひろがる。

 目の前の惨状がまさにそれである。ヤンはまた呻くように呟いた。
「恐ろしいな、少佐」
 残骸の影から、のそりと姿を現したダシコフが応える。
「まったくだ。あんな芸当どうやったってマネできねぇ」
 言いながら汚れた上着を、炎上する車体に放り込む。
「力まかせなヤツには永劫に不可能だろうな」
「ああ……なにしろ瞬殺だからな。少佐にはどんな防御手段も通用しねぇ」
 皮肉ったつもりの台詞も、目の前の光景に圧倒されている彼には通じていないようだ。
 だから不可能なんだ、と内心失笑する。目に見える変化だけに気を取られ、その内側にある意味を理解していない。ヤン自身、現状に戦慄すら感じているが、ダシコフのそれとは根本的に違う。
 鉄橋の上、すでに二人だけになった人影に視線を移す。
 ヤンを含めた彼らが所属するのは、冷戦下、主義主張の似通った国同士がたまたま同じ研究目的を持ち寄っただけの、いわば出来合いの施設だ。冷戦終結、ソビエト崩壊、改革解放政策、それらを経て今なお機能しているが、いつ共生関係が潰えるか知れたものではない。
 少佐と国籍が同じだから、などと単純に考えているだろうダシコフには想像すらできないだろう。彼女と敵対する場面などは。

「ごめんなさい……少佐……ごめんなさい」
 そんなソーニャの嗚咽を、キーリクは背中越しに聞いている。現れた時と同じまっすぐな姿勢のままだが、顔がすこしだけ上を、ちょうど戦火と反対側の、ビルがとぎれて開けた空を見上げている。

『なんというか……そう、影響力が強い。常識を逸脱し過ぎている。誰もがあなたを退けられないだろうし、わたしの神様が見ても、きっと引いちゃうわ。即異端扱いだわね』
 知ることすら知らされず巻込まれた内戦。学舎に近づく兵隊をことごとく消し続けていたある日、聖職者とおもわしき女性がふらりとあらわれた。いつも笑ったような顔のアジア系女性で、初めて会ったあの日も変わらぬ表情でさらりとそんなことを言った。
 以来、キーリクたちの保護者として生活を共にするが、ずっとその顔付きが変わることはなかった。柔和な表情の割に物事の割り切りが早いリアリストで、キーリク同様拾われてきた子たちに信頼されていた。
 優しさや慈愛、同情めいた事は一切口に出さず事実だけを指し示す物言いは、聖職者らしからぬ独自の哲学を彼女が持っているためだが、社会から冷遇されてきた子達には”信頼する事に納得できる”人物に見えたのだろう。

 思い返してみればただ一度だけ、初めて会ったあの日に、彼女は違う表情を見せていた。さきほどとは打って変わって、ゆっくりと、諭すようにこんな事を言った時だった。

『でも忘れないで、その力はあなたの力。あなたの身体や心と同じ、あなたの一部。人は自分を幸せにするために生きている。コレに関しては私の神様も同意見よ。だから忘れないで。あなたを幸福にするなら、その力を使うことに躊躇してはダメ』
 キーリクの目線と同じ高さまで身をかがめて、まっすぐに瞳を見つめる。瞳の奥を射貫くような決然とした何かが込められていた。
 ――まったく、自分のことながら呆れ返る。
 キーリクは思わず出そうになる笑い声を静かに抑えた。少しだけ肩を震わせる。
 子供のころに聞かされたアレが、自分が自分たり得る唯一の理由になってしまっていて、さらに愚かしいことに、呆れている自分を意識しつつも、その言い付けを破ろうという気がまったく起きないでいる。

 だが、背後で嗚咽する少女は違う。死への恐怖、生が断たれる悲しみ、彼女が涙するのは至極当たり前のことだ。
『少佐』
 ダシコフの呼びかけを、とりあえず置いて振り返る。
 袖で顔を拭うソーニャを見据えた。
「うん……もう大丈夫、どうかしてた」
 落ち着きつつある彼女は、はっきりした口調でそう言うと苦笑してみせる。
 キーリクには分かっていたことだった。昔からこの少女にとってキーリクは憧れの対象であった。それは人の生死に関わる事ですら決然と判断し、能力を行使できてしまえるキーリクに、内面的な強さを感じたからだ。
 それが強さということなのかは分からない。だがソーニャは自分の意志で選択した。他者に委ねてしまいたくなる衝動を切り捨てた。だからキーリクは肯定も否定もしない。
 ただ先刻、現地人の少女と会ってしまったせいか、思わずにはいられない。髪の色は違うが、背格好や年はそう変わらない。けれど二人の目に映る世界はまったく違うのだ。
「あ……」
 ソーニャの呟きにキーリクは頷く。
「ソーニャ、トレースの再開を」

 キーリクは改めて眼下の光景を俯瞰する。
 横転した車両、濃密な黒煙、舗装の剥がされた土砂――無秩序に放逐された、事切れた骸、骸、骸。
 しかしそれも、ここでは一時的な惨状でしかない。
 周囲に視線を転じれば、東京のそれよりは見劣りするものの、駅前の高層ビル群が彼女と同じく、その光景を見下ろしている。
 ガラスとコンクリートの整然とした無機質さ。
 今でこそ、その中を往来する人々は、さぞや騒然としているだろうが、彼らの日常はそれらと全く無縁な世界。淡々と変化の無い繰り返しの日々。皆で寄り添いつつも、かといって他者に深く干渉しない。
 まさしく整然とした無機質さで日々を塗り重ねていく。
 眼下の惨状も例外ではない。それがたとえ大火災、もしくは常軌を逸した殺人鬼による無差別殺人であろうと、いつのまにか上塗りされてしまう。
 そこに住む人々が意識することなく、だがしかし確実に元の生活に修復される。「平穏な日常」とは、曖昧な意識でありながらも、音なき大河のごとくゆるやかだが、その流れは何者にも遮ることは出来ない。
 事態が収束した今まさにそれは始まっている。
 流れに投じられた「非日常」という波紋は、速やかに「平穏な日常」という流れに飲み込まれていく。
 キーリクはその変化を直に、何度も肌で感じている。動転から平静へ。彼女らの任務の特性上、事態が行き着くところまで行ってしまってから投入されることが多いからだ。
 地方都市とはいえ、首都東京の次に都市機能が集約するこの地も、修復・再生への活力が充分ある。この地に足を踏み入れた時からそれは感じ取っていた、はずだった。

 キーリクは再び空を仰ぎ見る。
『少佐?』
 ダシコフの二度目の呼びかけに、キーリクは簡潔に答えた。
『今の障害は、宗教組織が操作した警察力の部分的暴走だった』
『リークが早い』
 彼女も懸念していることをヤンが口にする。
『だな、たぶんコレも』
『いや、第二波にしては危機感がない。散漫すぎる』
 キーリクの見つめるビルの合間の空に黒い点が見える。微かに聞こえる羽音はジェットタービンによるものだ。
 風に乗って運ばれてきたのはヘリの羽音だけではなかった。ひたひたと、だが着実に忍び寄る気配。彼女らが良く知る、否これこそ彼女らが居る本来の世界の匂い。
 哨戒のために先行するヘリであることは間違いない。本隊が到着する頃には「平穏な日常」なぞ消滅しているだろう。
 キーリクの傍らにヤンが姿を現す。彼もキーリクと同じく空を見つめている。
「戦場だな」
 感傷もなにもない、ただ事実を確認するだけに発せられたヤンの呟きを、キーリクもやはり無感動に受け入れた。
 
 ダシコフもヤンも、何かが迫りつつあることには気づいている。だが自分たちを目標としているのか、といえば、そうは感じない。ならば
『予定どおり南下する。ソーニャはトレースがまとまり次第報告を』


 
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