S6江藤圭子

「尾野?」
 どうやらこちらを見てニコニコ笑っているらしい久川吉巳に、江藤圭子はストレートに不快感を表しながら問い返した。

 久川吉巳のような手合いはそう珍しいわけではない。
 うわべだけにせよ、天然であるにせよ、ああいったキャラクターでしか他人と接することができないのは、自分に自信のない弱者だからだ。
 そんなヤツをあしらうなんて簡単なことだ。江藤圭子には経験で裏打ちされた自信があった。
 なのに今回の転入生は違う。どこかアンバランスなのだ。
 帰国子女だというからその辺りのギャップかとも最初思ったが、そうでもない。どういうわけか気構えてしまう。
 だから、昨日の今日で体育館裏に呼び出しを掛ける転入生に、江藤は警戒せずにいられなかった。

 だがそれは全くの思い過ごしだったようだ。
 場所が体育館裏なのも、前の授業が体育だったからだと言う転入生は、学食コロッケをほおばりながら笑顔で迎えてくれた。敵意など微塵もなかった。
 対して、一戦交える心づもりで、あげく仲間など連れてこの場にノコノコ現れた自分の、斜に構えた応対が恥ずかしくも思えた。
 だから、好意を感じないにせよ、真面目に話を聞こうと思い直したのだった。
 なのに転入生は開口一番「尾野君をどう思う?」などといきなり聞いてきたのだ。
 江藤の後ろに控えている女生徒二人もあからさまな敵意を転入生に投げかけていた。

「なに、アンタ、生徒指導のマネ事でもしてくれるっての?」
 嘲るように言うと、左半身を引いて、文字通り斜に構える。
「え、どういうこと?」
「前にもいたよ、そーゆー風に偏差値かせごうとしてる子がね」
 数年前までこの手の問題には触れようとしなかった学校側だが、イジメが起こるのは教師の管理意識が希薄だからだ、という責任転嫁が世間の風潮となりはじめた昨今、学校側はイジメる側の生徒の指導に注力している。

「…いや、そうじゃなくって」
 苦笑ながらに弁解しようとする久川を強引に遮る。
「うざいなぁ。イジメやってんの、あたしだけじゃないだろ?」

「あ、やっぱりあるんだ」
 少し間をあけた応えに、ほらきた、と江藤は思う。
 この子もクラスメートを売る輩の一人だ。
 別にそういった点数稼ぎを否定するわけではないが、彼女自身が巻き込まれるのは、ごめんだった。
 いつものように無理矢理黙らせようかとも思ったが踏みとどまる。
 どうやら相手の人数に物応じしない神経の持ち主らしい。それだけに後々尾を引きそうだと判断した江藤は、矛先を他に向けることにした。

「あるさ、当たり前だよ。今日だって青木が鍵無くしたって言ってたろ?すぐ見つかったけど」
「青木さんって…てっきり優等生だと思ってたけど」
「まぁね。けど尾野がらみはみんな標的にされるんだよ」
「尾野君が?」
「そう思うだろ?ギャップありすぎ」
 江藤は唇の端を吊り上げて笑ってみせた。

「あの二人になにかあったの?」
 予想通りの反応に江藤は笑いを止め、睨み付ける。相手を調子づかせるためにこんな話をしているわけではない。
「カンケーないっしょ、あんたには」

 青木雅美がイジメを受けているのかは、本当のところ江藤にはわからなかった。それでも公然と尾野をイジメている自分にくらべれば、よほどスキャンダラスなネタだ。彼女にとって最上級の譲渡であった。
 そして、転入生がこれ以上欲張るのであれば、それなりに応対してよいと考えていた。
 転入生は体育館の壁に背を預けている。逃げ場はない。
 江藤は後ろの二人がすぐ近くまで来ているのを確認した。

 久川は一度ふかくため息をつくと、おもむろにスカートのポケットから携帯電話をとりだした。
 身構える三人を無視して何個かボタンを押す。
 久川の得物が電話だと分かった取り巻き二人は緊張を解く。しかし江藤はそのままだ。
 厳密には緊張を解かないのではなく、解けないのだ。
 目の前の転入生、うわべだけの接し方しか知らない軟弱女子高生が突如別の何かに変わった気がしたからだ。それは本当に突然で、化けたという表現が正しいのかもしれない。

「センセ?いまどこ?」
 久川の第一声に色めきだったのは取り巻き二人だった。江藤の前に出る。
 どうやら「先生」という単語が気に入らなかったらしい。

「予犯委の会議?ああ、そだったね」
 携帯電話を持つ反対側に立っていた取り巻きが先に久川の視界を覆い、1テンポ遅れてもう一人が電話を取り上げようと無造作に手を出した。初歩的なフェイントだが素人相手には充分だ。
 久川はそれを予測していたかのように上体をひねって、その手を空振りさせる。
 江藤に目の前の光景が理解できたのはそこまでだった。

「悪いけど戻ってこれる?…うん、昨日言ってた二人。…そう、やばいかもしれないんだ」
 取り巻きの一人は喉に両手をあてて跪いている。もう一人は、あろうことか久川の背中と体育館の壁に挟まれ、呻き声をあげていた。
 さっきまでと同じ姿勢なのは久川だけだった。ときおり後ろに体重を掛けて「ぎゅうぎゅう」言わせている。

「保護者同伴の方がいいかと思ってね。…それはないと思うよ。うん、とりあえずってやつ」
 上体をひねって相手の動きを受け流しながら、もう一人の喉元を空いた手で一突き、かわされて勢いあまったもう一人の足をつまづかせ、制動の効かなくなったところで全体重をかけて押しつぶす。もしかすると肘が入っていたかも知れない。
 たぶんそんなところだろう、予想はできる。だが、あの瞬間にそれらの動作をまとめてやってしまえる自信は江藤にない。

「この眼鏡、少し度が入ってるから、加減がむつかしくって…」
 愚痴だか独り言だかわからない事を言いながら、数歩前に出た久川は眼鏡を外した。
 スダレのような前髪越しに目が合った瞬間、江藤は納得した。
 昨日からずっと妙な不均衡さを転入生に感じていたのは、彼女の強烈な個性のせいでもなければ、周囲とのギャップでもない。
 元々、彼女は『こういう女』だったのだ。

「付き合ってもらうよ、江藤さん。もうすこし詳しく聞かせてもらうから」


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