S10江藤圭子 「オッケ、間に合った」 言葉とはうらはらに安堵している気配はない。 それは言われるがままについてきた江藤でも、目の前の状況を見れば理解できた。 青木雅美の自宅に尾野がいる。ヨリが戻ったわけではないことは、青木のおびえる姿ではっきりしている。だとすれば、なんらかの方法で勝手に入ってきたことになる。 これって住居不法侵入とか言うんじゃなかったっけ。 などと自分のことを棚に上げて、ぼぅっと考えていた江藤は、唐突に我に返った。 昨晩、例の掲示板への書き込みが原因なのではないのか。 尾野を名指しするようなアレが、こんな事を引き起こしたのではないのか。 ちょっと待て。 こんな事ってなんだ。 自問する江藤は、おぼろげに答えが出ている自分を拒否したくなった。 「えっと、尾野君、でいいのかな」 転入生、久川吉巳は確認するようにゆっくり言って、両手を上げる。 「青木さんを見てみなよ」 ゆっくりと、それでいて親しみをこめた久川の口調に、尾野は眉間に縦皺を何本も入れつつも、少しずつ首を動かしはじめた。 普通、自分は危害を加えないだとか口にせずにはいられない状況なのに、久川は態度だけで尾野を納得させている。そんな簡単なことで説得できてしまうのかと江藤は感心した。 だからといって、自分が両手を上げれば同じ事ができるか自信はなかった。久川のそれと、自分が手を上げるのとでは根本的に違う気がしたからだ。 「ほら、すっかり怯えてるだろ?今日はその辺にしといてやろうよ」 久川の横で内心オロオロしている江藤とは関係なく事態は進行していく。 しばし青木を見つめていた尾野から険しさが薄れていくのがわかった。肩の力が抜けて、手にしたケーブルのようなものも滑り落ちそうだ。 江藤は事情がわからないまでも、なんだかホッとした。 久川が舌打ちしたのはその時だった。 「ごめん」 背後から女性の声が聞こえた。 反射的に振り向こうとした江藤の視界が強引にねじ曲げられる。 一瞬の間に事態は悪化していた。視界が回復して、はじめにとらえたのは、カッターナイフを喉元に突きつけられた青木雅美とナイフを握る尾野の姿だった。 ドラマなどでよく見る追いつめられた犯人と人質の姿に二人がダブる。 常々そんなものはフィクションの産物だと滑稽に思っていたが、目の前で鈍く光るナイフはそんな思いを吹き飛ばすに充分だ。 「動くな」 江藤は可笑しくなった。目に入るものはリアルでも、聞こえる言葉はやはりTVと同じだ。 ふと江藤はおかしなことに気付いた。今の声は尾野の声ではない。 それに人質も人質を取る方も、その役柄にふさわしい表情をしていないのだ。青木も尾野も呆然と、こちらを見ている。 江藤はようやく理解した。そもそも自分の視界が斜めに傾いていることを。そして首になにか巻き付いていることを。 それが久川の腕だと解るのにさほど時間は掛からなかった。 「アルバニアって国は知ってるよね、宗教とか積もりつもった利害関係やらで2つの種族が戦争やってる国。日本じゃ、民族紛争って言うんだっけ?」 先ほどのたしなめるような口調とは全く異なる声は、体育館裏で豹変した後の彼女に似ているが、あれよりもずっと分かり易い質のものだ。 耳元の声に危険な臭いを嗅ぎ取った江藤は反射的に久川の腕をつかんだ。 なんとか指先を首と袖の間に入れることはできたが、それだけだ。ぴくりともしない。 「普通の戦争ってのは喧嘩と同じで、相手が戦えなくなったり降参したら終わりだ。でも、民族紛争ってのは酷いもんでね。降参も取り引きもなし。なにしろ相手全部を純粋な憎しみで敵と見なしてるわけだしね。だから、兵隊だろうが普通の人間だろうがかたっぱしから…」 首から上ががっちり固定されてしまった江藤から久川の表情は見えない。けれども笑っているのはわかった。 「…殺す」 久川の腕に力がこもる。一瞬、意識が飛びそうになる。 あんな華奢な身体のどこにこんな力が。 華奢な身体? そうだ、江藤はたしかに見ている、先ほどの体育の授業で。 更衣室で見た久川の下着姿を思い出す。あまりにも周囲がまじまじと見ていたので江藤自身チラリとしか見ていなかったが、それでも久川の肢体は本当に女の子だった。どちらかといえばスタイルは良い方だったのでは、とも思う。 だが今首を絞めている腕は、もしかしたら簡単に首が折られてしまうんじゃないか、などと容易に想像させるほど力があった。並みの男子以上の筋力だ。 そう思い至って、江藤は妙なことに気付いた。 柔らかい。筋肉と骨でゴツゴツした男子のそれとは違って久川の腕の感触は柔らかいのだ。 だがすぐに納得する。要は皮下脂肪だ。 鍛え上げた筋肉をうまく贅肉が覆い隠しているのだ。体育の時に見た久川の外見の説明がつく。 とはいえ、身体のラインを崩さずこれほどの筋力を維持するなんて、ただのダイエットよりよほど難しい。 などと感心していた江藤は、さらなる疑問に思い至って、凍り付いた。 なぜ、隠す必要があるのか。 「それに、殺す順番ってのが決まってて、将来戦力になるかもしれないやつらから片づけるんだよ。つまり、女子供からってことになるね」 江藤は、久川をはじめてみたとき妙な警戒心を抱いたのも、体育館裏で久川が豹変したとき納得できたのも、久川の本性を無意識に嗅ぎ取っていたからだと思っていた。つまり、自分と同類なのだと思ったのだ。 だがそれは大きな間違いだった、いや、そういった次元の問題ですらなかった。 「帰国子女って言えばみんな色眼鏡で見るけど、あたしの場合は、ていのいい難民ってとこかな。日本に帰国できたのは幸運だったって、今でも思うよ」 尾野に向けてもっともらしい事を言っているこの女は、ただの異常者だ。江藤は確信した。 「まぁ、そういうわけさ。あたしとしては今更一人や二人増えたところでどうってことないんだけど、どうする?青木さんを解放する?それとも江藤さんにお別れの言葉でも言うかい?」 人質を取られたから自分も同じ事をやって脅そうとする、そんな訳のわからない思考回路を持ち合わせているのは異常者しかいない。 今まで江藤にはそういう人種と対面する機会が少なからずあったし、対処の仕方も心得ているつもりだった。 力だ。理屈の通じない相手には力で対処するしかない。 江藤は全身から力が抜けていくのがわかった。久川には唯一の対処方法も通用しない。 なにか良い手はないものか、江藤は目だけで周囲を見回す。 といっても、一女子高生の部屋に、生命の危機にさらされた人間が救いを求められそうな物なぞあるわけがなかった。 自然と目の前の二人に視線が向く。 もともと尾野を当てになどできない。顔を合わせれば殴らない日はなかったし、無理矢理借りた金も数万円どころではない。 なのに、彼にとってこのままの方が好都合かもしれないのに、尾野は躊躇しているように見えた。 「結局、あんただったのね」 青木雅美がつぶやいた。 静かな口調だが、はっきりとした怒りが混じっている。 「私と自分の立場を入れ替えて…卑屈さ加減じゃ、あんたらしい事だよね。でも、どうすんのさ、このままじゃ、じきママが帰ってくるわよ」 尾野が震えたように見える。それに気づいたのか青木の顔には、怒りを通り過ぎて嘲笑めいた表情が貼り付いている。 「そうなったら警察が来るのも時間の問題よね」 今の状況は決して良いとはいえない。しかし江藤は、なぜだかわからないが、事態が好転している気がしていた。 そして次の青木の一言がそれを台無しにする嫌な予感もしていた。 「わかったら、さっさと放しなさいよ!ナメクジ!」 また尾野の肩が震える。 今まで久川の理不尽な脅迫に動揺していた表情が急速に穏やかになって、双眸からも光が消える。 江藤は背筋に冷たいものが走った。尾野がナイフを握りなおしたのが見えたのだ。 久川が鼻で笑う。 最悪だ。江藤はもう、どうでもよくなっていた。 尾野は青木を刺すだろう。そうなれば自分も生きていないかもしれない。そんな事柄も含めてどうでもよくなっていた。 「青木さん、今更まともな事言っても収集しやしないよ」 久川の口調がまた穏やかさを取り戻していた。だが、江藤は身動きがとれない。 「尾野君、あんたは江藤さんに罵倒されてて、本当に苦しかったかい?」 突然名前を呼ばれ、声の主である久川を見ようとするが、やはりかなわない。 「そこの青木さんみたいに殺したいって思ったことはあったかい?それよりも、周りの人間にわかるように虐められてて、すっきりしてたんじゃないかい?」 もうじき死ぬかもしれない。そんな切迫した状況なのに、別の感情が湧きあがってくる。それはあっという間に江藤を支配した。 頬が紅潮する。 「イジメって言葉は面白いもので、ガッコの中であれば大体のトラブルはそれで片づけられる。でもはっきり言って江藤さんのあれはイジメじゃないよ。ただの暴行さ」 久川を黙らせたい衝動に駆られる。現実的に無理なのだが、それ以前に江藤の別の感情が衝動を押し止め、久川を促していた。正反対の感情が攻めぎあい、一瞬にして混乱に陥った江藤は目を固く閉じた。 「わかったかな?…苦しかったのは江藤さんの方さ」 緊張した身体が、徐々に緩んでいく。それと同時にゆっくり瞼を開いた江藤は足元から視線を上げ、目的の人物を視界に入れる。 尾野は見えないナイフを突き付けられたように上体を反らせて、両目を見開いていた。久川に向けられていた視線が、震えるようにこちらに向けられる。 尾野の目には自分がどんな姿で写っているのだろう。 「主役交代だな。自分の気持ちってのはわかんないもんさ。端から見てると、かなり分かり易かったけどね、キミたちは」 尾野が突然、叫び声をあげた。 「なんだよそれ」とか「うそだ」とか、たぶん自分でもわかっていないことを叫んでいる。 それに女の子の悲鳴が混じる。 我を忘れて叫ぶ尾野の腕が振るえて、カッターナイフが青木の顔の前を行ったり来たりしているのだ。 江藤は笑みを浮かべた。 そう、子供の頃と変わっていない。 強情なくせに我慢が足りなくて、すぐ泣き出す。いつからだったんだろう、そんな姿がうっとおしく感じるようになったのは。 それは永らく尾野に見せたことのなかった、おだやかな笑みだった。 二人の騒乱を断ち切る声が耳元で聞こえた。 静かに、それでいてよく通る声だった。 「尾野君、時間切れだ」 |