S3久川宅T

「っしゅん!」
 久川吉巳は、ここ数日くしゃみに悩まされている。
 顔をそむけ、鼻をぐしゅぐしゅしている様を、久川摩耶は、今晩のメイン・ディッシュである唐揚げを箸でつまんだまま、ぼぅっとながめていた。
「……なに?」
 顔をこちらに向けず吉巳が問う。
「いや、くしゃみは可愛いんだなぁって」
 吉巳の鋭い視線を受けつつも摩耶は、にへらと笑って受け流し、唐揚げを口に放り込む。
「っしゅん! っしゅん!」
「案外、ただの鼻炎だったりしない? お薬飲んどく?」
 確かに10月に入って冷え込む朝が続いている。保健室へやってくる生徒が増えるのも、こういった季節の変わり目だ。
 しかし、吉巳を気遣う摩耶自身、そういった病気の類でないことは分かっていた。

「たぶん違うと思うけど、一応もらっとく」
「そんなに酷いの?」
「放課後とか、ホームルームは特にね。現にココ、ガッコじゃないんだよ。なのにこの有様だからね」
 根本的な原因は、特異体質と言っても差し支えない彼女の嗅覚にある。
 摩耶が彼女の体質を知って1年が経つが、どういう原理なのか未だに解明できていない。
 いわゆるアレルギー反応のようなもので、彼女曰く、対象に近づくと柑橘系果実の腐った臭いがするのだそうだ。
 そもそも、その対象が『今のところ明確に線引きできない類』のものであるから、彼女の特異体質をどうにかできようはずもない。
「でも難儀な体質よね」
 今回の学園に赴任してまだ3日、その間、学内でハンカチ片手に辛そうな吉巳を見かけている。
 傍から見れば季節はずれの花粉症。摩耶自身、花粉症などとは縁遠い体質で実感はないが、不憫には思う。
「言葉だけの同情なんて、いらない」
 にべも無く切り捨てる吉巳だが、摩耶は全く動じることなく、しばし思案する。

「あ、そうだ、学園祭の期間だけ休んじゃう?」
 学園祭という環境が吉巳の体質に関連があるとすれば適切なはずだ。患者と症状の原因を切り離すのは基本である。
 加えて摩耶の『調査』に随伴するかたちで転校を繰り返す吉巳に、履修単位なぞ意味がない。
 軽い気持ちで言った事だが、よくよく考えてみると良いアイデアかもしれない。
 しかし当の吉巳は一瞬こちらに視線を向けると、またそっぽを向いてしまった。
「邪魔くさいからいいや、どのみち本番は今週末だし」
 いつもどおりの、あっさりとした返答。だが、摩耶は気づいた。
 摩耶は常に相手の顔を見て話す。
 より深くコミュニケートする手法のひとつであるが、それは彼女の職業柄必要なことであるし、そういった対話を苦手とする相手に対して、顔を見ていないそぶりで、その実しっかり観察する術も心得ているほどに、相手に気づかれずに表情を読み取る術を心得ている。
 だから彼女は見逃さなかった。吉巳が一瞬こちらに向けた、瞳を。
 怯えにも似た悲しげな瞳。
 理由もわからずに突然、親に叱られた子供のようだった。

 理由がわからないのは摩耶も同じだった。
 何か変な事を言ったのか。いつものように軽はずみな言動で、嫌味を言い返されるならまだしも、吉巳を動揺させるような事を言ったのだろうか。
 自分の言った事を思い返して、はたと気づいた。
 どうやら今回の学校は吉巳と相性が良いらしい。鼻の不調に不平を言いながらも通学を続けているのが、なによりの証拠だ。
 それに学園祭期間だけの「本番」なんて専門用語が出てくるあたり、摩耶の見立ては間違っていないように感じる。
 つまり、吉巳は学園祭に参加したいのだ。
 短期間のうちに高校を転々としなければならないせいもあるだろうが、吉巳自身学校生活というものに興味がないように摩耶は感じていた。
 仕事の協力者という立場である以前に、吉巳はまだ高校生であり、摩耶は姉である。
 姉として、保護者として、まっとうな青春時代というヤツを送って欲しいと願う彼女にしてみれば、学校行事に興味を示す今の吉巳は、嬉しい変化であるといえた。

 そんな吉巳の変化を逃すわけにはいかない。
 彼女にはぜひとも学園祭を楽しんでもらわなければならない。
 そう思うと、ある疑問が浮き上がってくる。
 この学園に赴任してから、ずっと思っている疑問だ。

「でも、本当に学園祭のせいなの? 群集心理の延長線上に人格があるなんて」
 吉巳の体質に関しては、未だ経験則と推測しかないが、彼女の体質が反応するのは『ある個人』に対してだけだった。
「うぅ、せっかくの機陽軒のコロッケが……」
 箸でつまみ上げたコロッケに鼻先を近づけても、今の吉巳には、香ばしいパン粉のにおいや、食欲を掻き立てるソースの香りを嗅ぐことができない。
「ちょっと、ソレ私の」
「学食には定食が2種類あった。コロッケ定食と焼肉定食。あたしはコロッケ定食を選んだ。これはあたしの意思だ」
 そこで区切ると、確認するように一瞥する。一瞬硬直した摩耶は、吉巳の意図を察すると無言で頷いた。さりげなくコロッケを口にほうり込み、吉巳は話を続ける。
「学園祭のクラスの出し物で、洋食屋と喫茶店が候補に挙がった。あたしはコロッケが食べたくて洋食屋を推した。でも1時間話し合って、喫茶店に決まった」
 コクリとコロッケを飲み込むと、箸先を摩耶にむける。
「出し物が喫茶店に決まったのは、誰の意思か?」

 箸先を牽制するように、最後のコロッケをついばんで、摩耶は答えた。
「たしかに人格って『一貫性ある行動傾向と心理的特性だ』って定義されてるけど」
 これは、今回の学園に赴任してすぐに話したことでもあった。
「それに、特定のメンバーで構成された集団が一貫性ある意思決定を下す。これを行動傾向とした場合……集団から人格のようなものが生まれていることになる、っていうのも論証がないわけじゃないけどね」
 実際、一個人が集団社会で生きていく場合、グループの一員となり、グループの意思決定に関わる場面は特別視するまでもなく存在する。
 吉巳が例に挙げた学園祭の出し物も然り、新学期最初に決めるクラス目標、クラブ活動での練習メニューの策定、社会人ともなればさらに顕著になる。会社の会議では売上目標やら作業スケジュールに人員計画、それこそ毎日のように意思決定が下される。
「社風」といわれる企業の特色も、意思決定の積み重ねから生まれる個性だとすれば、その延長線上に人格を結び付けるのも無理な話ではないだろう。

 だがこれらは、吉巳が鼻炎に悩まされる前提でしかなく、本題はその先にある。
「でも、多重症や障害の発症までありえるのかな」
 つまり吉巳の体質とはそういうことなのだ。人格の異常性を、まさに『嗅ぎ分ける』能力。
 いままでは個々の学生に対して嗅ぎ分けができていた。そしてそれこそが摩耶の調査の一端を担っていたわけだ。
 だが、この学園に来てから常に『臭っている』状態が続いており『嗅ぎ分け』ができなくなっていた。それどころか吉巳の嗅覚器官への障害――といっても鼻炎や花粉症に似た軽度なものであるが、日常生活に少なからず影響を与えている。
 いまのところ主な原因と考えられるのが、今回赴任した学園の状況である。学園祭という明確な目的が設定され、ほとんどの学生たちが結束している時期、摩耶の言葉を借りるなら、学生集団が率先して一貫性ある意思決定の元に行動する時期。
 仮に吉巳の所属するクラス、あるいは学級全体で集団人格なるものが形成されたとするなら、それが引き起こす異常性とはどういったものになるのか?
「でも、あたしのハナが、そういうのに反応するんじゃないかってのは、今までの経験上であって根拠なんてないわけだから、今の話だって的外れかもしれないよ?」
 今回のケースに関しては疑問が残らないでもないが、逆に吉巳の能力に明確な裏付けが取れたとすると、興味深い論証ができる。本来の研究テーマと異なるが、フィールドワークとしてわざわざ学校を転々とした成果が……。
「って、あーっ! あした予犯委の会議じゃなかったっけ?」
「センセ、初見報告、まだ書いてなかったの?」
「いあ、ザッとは書いてあるのよ、ザッとは。でも……まとめるのすっかり忘れてた」
「いいよ、片付けはやっとくから」
 ゴメンと両手をあわせ席を立つ摩耶を、手をヒラヒラさせながら生温かく見送る吉巳であった。


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