S7教室T

 脚立から降りた吉巳は、借りた金槌と残った釘を男子生徒に渡すと、天井を見上げてみた。
 模擬店の厨房を間仕切るクロスが天井から垂れ下がっている。
「大丈夫、かな?」
 満足そうに頷く吉巳。
 金槌をとりあえず受け取った男子生徒の視線も、クロスに向けられている。
 脚立に乗って、さらに手を伸ばしてやっと届く天井に、どうやってクロスを取り付けるか苦心していた彼であるが。

 生徒主導で開催される学園祭にあっては、往々にして作業スケジュールの見積もりの甘さが露呈する。特に本番前日ともなると、そのような問題は頻発しはじめる。
 資材が足りなかったり、作業が思ったより進まなかったり、1度や2度の泊り込みで祭気分に浸れる程度ならまだしも、本格的にピリピリしだすクラスもある。
「ありがとう、久川さん。ホント助かったよ。でも、よくあんなところに釘を打てるなぁ」
 学園祭前日などという予定変更もままならない時期に、作業の遅れは致命傷になりかねない。
 あやうくクラスの足を引っ張りかねない危機に陥っていた彼は、心底喜んでいる。
 片や、吉巳は男子生徒に向き直ると、顎に手をあてて小首を傾げている。
「なんていうのかな、腰を――、身体をねじらないのがコツなんだ」
 言葉にしてみてイメージがまとまったのか、あるいは何か思い出したのか、苦笑しつつ続ける。
「梃子の原理じゃなくて回転作用だから、込めた力が逃げないんだってさ。よくわからないけど」
 言いながら、姿勢を正した彼女は膝だけ曲げて腰を落としてみせる。
 説明されている男子生徒も、よくわからない表情で吉巳の所作を目で追う。
 右足にやや重心をおいて、左足を添えるように。
 そのとき、件の男子生徒を呼ぶ声がした。いまや模擬店の準備も佳境である。油を売っている暇はないようだ。
「それじゃ」と視界から消える男子生徒の向こうに、見知らぬ女子生徒の姿が見えた。
 開けっ放しのドアから教室に入ってきた彼女は、吉巳を見つけるとまっすぐこちらに向かってきた。
 柔らかい笑みなどを浮かべてみせる彼女の胸元のピンバッジは、どうやら三年生であることを示している。
「久川さん、どう? 学園には慣れた?」
 まるで吉巳を見知った風に声をかけてくる。当然、吉巳は知らない。
「ん、どうだろうね」
 相手の意図を測りかねる風に、ありていに応える。
「じゃ、このクラスはどう? みんないい子ばかりでしょう?」
 吉巳は女子生徒の声に力を感じた。
 やさしく語りかけるように、でも声音そのものは小さいわけでもなく、張りがある。
 何者をも優しく包み込む、包容力を感じさせる声だ。
「そうだね。みんながんばってるよね」
「他の学校と比べてどうだい?」
「……」
 吉巳が、黙って女子生徒との距離を縮める。ほんの2、3歩前に歩み出ただけの何の事もない所作だった。
 なのに、対する女子生徒は思わず怯んでしまう。
 本人も何故か分かっていない。
 彼女が怯んでしまったのは、吉巳の移動に違和感を持ったためである。それは些細すぎる違和感だったので原因が分からないのである。

 人の歩行とは、片足から反対の片足への体重移動の繰り返しである。そのため身体が左右に振幅する。歩き方によっては肩が上下に揺れたりもするだろう。
 吉巳の移動には、起こるべき身体の振幅がなかった、というより限りなく小さいというのが正しいだろう。
『人が歩く』というあまりにも日常的で、意識する必要すらない所作であるがゆえに、挙動がイメージとして無意識のうちに刷り込まれていて、そのイメージと吉巳のそれとの違いに――、それが意識する必要すらない所作であるがゆえに、気づかない。

 そんな女子生徒の狼狽を他所に、吉巳はさらに顔を寄せて鼻を鳴らしている。
 今度の狼狽の原因は明確だった。鼻先に吉巳の無表情な顔があるからだ。またもや怯む。
 そして吉巳も今度は、彼女の心中を和らげようとするかのように、微笑んでみせた。
「清々しい感じがするね。打算含みの献身も、身勝手な孤独もない、なにより連帯感がある」
 ようやく望んだ答えが出たせいか、女子生徒も笑みを浮かべる。それも満面の笑みだ。
「うん、そうだね。まだ数日しか経ってないけど、久川さんにそう思ってもらえて嬉しいよ」
 顔を引いた吉巳は、内心溜息をつく。鼻は本調子にほど遠い。
 ともあれ、この相手にそんな確認など必要ない。
 知っている、こういう人種を彼女は知っている。
 相手の意見を無差別に受け入れはするが、決して従わない。従いはしないが、相手を否定もしない。
 転じて、自分の意見を曲げることも無い。反論はすべて無差別に受け入れ、やはり従わない。ただ、ひたすらに自分の意見を繰り返すのである。

「でも、1年もすれば受験が控えているし、この楽園からも出ないといけなくなる」
「学園でしょ?」
 思わず出た反論は、吉巳の意図するところではなかった。感情を抑えられなかった自分に内心で舌打ちする。
「外の世界と対比した表現だよ。社会に出れば、大抵はうだつも上がらない給料取りが関の山、どこかのだれかが決めた道をただ踏み固めるだけで、自分のやりたいことすらままならない。そんな風になぜ生涯の残り全てを削りとられなければならない?」
 案の定、女子生徒が饒舌になる。
「けど、そうやって自分を切り開いていくもんだろ」
「あなたはそれでいいの? 不安はない?」
「さあね、どうだか」
「あなたはそんな安っぽい人じゃない。わたしたちの話を聞いてみて」
 この手の人種はやりすごすに限る。
 下手に反論しようものなら、さきほどのように相手の思惑へハマり込んでしまう。それは同時に、こちらの理屈が塞がれた事を意味する。
 そうなっては、はぐらかす選択肢も狭まり、また無用な反論を呼び起こし、結果、相手の思惑に従う流れとなってしまう。
「こぉら! 占星術研! 忙しいんだから邪魔しないでよ!」
 割り込んできた甲高い声は佐古のものだった。
 廊下側の窓枠から見える佐古は、なにやらポスターを貼り付けていたようであったが、ズカズカと教室に入ってくる。それに付いて須藤も入ってくるが、どうやら佐古を止めそこなった様子である。
「そうだ、佐古さんもどう? わたしたちの話を聞いてみない?」
 佐古の、上級生であろうと関係ないといった剣幕に動じることなく、それどころか笑みをたたえてそんな事を言う女子生徒に、佐古の歩みが止まる。
「あ、あんたたちの変な宗教なんて、興味ありませんカラ!」
 気丈に言い返す佐古であったが、すでに教室内の衆目を集めていることに気づいて、はっとする。
 目だけで周囲を伺う吉巳。作業を止め、こちらを見る生徒たち。しかし、その視線には、口論の場によくある、好奇や戸惑いがない。無機質ともいえる視線が吉巳と佐古に集中している。
 なによりも、視線を向けていない者は、まったく普通に作業しているギャップが印象的だ。
 一人が口を開いた。
「そうだよ、佐古さんも行ってきていいよ」
「ああ、こっちは任せておいて」
 そんな台詞が、そこかしこから投げかけられる。優しい笑みとともに。
 廊下にも、同じようにみつめている生徒がいる。

「な……なにいってんの、あんたたち」
 思わず一歩退いた佐古は、口元をわななかせている。
 見かねたように須藤は、佐古の肩に軽く触れて小さくささやいた。
「出よう」
 須藤はこの状況を落ち着いて観察していた様子だ。穏便にこの場を去ろうと、佐古を導こうとするが、彼女は動けないでいる。
 ちょっとしたパニック状態に陥っているようであった。
 そもそも口論の口火を切ったのは佐古だった。だがこの場はいったいどういうことだろう。誰かが彼女を非難しているわけでも対立しているわけでもない。
 むしろ彼女を擁護するような、なのに緊張感を伴った居心地の悪さ。

 異様な空気を絶ったのは、吉巳のおおげさなため息だった。
 三年生の女子生徒、周囲の生徒達、さらに佐古、須藤までが吉巳に注目する。
 脱力から一転して肩を怒らせると、キッと睨みつける。
 吉巳の異様な迫力に、笑みを引きつらせる女子生徒であったが、当の吉巳は、さきほどの佐古よろしくズカズカと歩み寄り、さらに彼女を通り過ぎる。
 佐古や須藤に目もくれず、出入り口近くまで進むと、近くの窓ガラスに拳を叩き込んだ。
 大きく振りかぶった右拳は、躊躇なくガラスを粉砕する。
 盛大な破壊音に、吉巳たちの教室のみならず、両隣の教室、往来はげしい廊下、ことごとく静寂につつまれる。
「あたしを怒らせるな!」
 吉巳が吼えた。

 先刻、摩耶が言っていたように、この学園はちょっとしたブランド校である。当然、このような暴力沙汰に免疫があるはずもない。
 吉巳以外の全てが硬直した。佐古や須藤も例外ではない。
 さきほどのパニックも一切霧散して、佐古の思考は完全に停止していた。
 だから、吉巳がすぐ隣に来ていたことも気づかなかった。
「出るんだろ」
 はっと我に帰る。吉巳の声が、今しがたの激昂からは想像もつかないほど、冷静なものだったからだ。
 思わず顔を向ける佐古に、吉巳はウィンクしてみせたりした。




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