S12病院T

 呼ばれたような気がして、簡素なソファに座る男は、顔だけを上げた。
 目の下のクマ、乱れた髪、蝋のような血色の顔。仕事で彼と関わる者であれば、日頃の雄弁な彼を知っていればこそ、その憔悴ぶりに痛々しさすら感じただろう。
 見上げた彼の目の前に、彼の娘と同じ制服姿の女子生徒が一人立っていた。
 眉の上で切りそろえた前髪に、化粧っ気のない顔、後ろ髪は肩口で切りそろえられ、年頃の女の子のわりに、いささか華やかさに欠ける気もするが、彼はなぜか安心させられた。

「郁子の、郁子さんのお父さまですか?」
 さきほどと変わらぬ殺風景な病院の廊下には、彼女以外誰もいない。
 ともあれ、間近に人が居たというのに気づかないとは、自分の落ち込みぶりに苦笑してやりたいところだが、その気力すらなかった。
 それでも彼は、なんとか微笑んでみせた。
「ああ、そうだよ。きみは郁子のクラスメイトかな?」

 少女は小さく肯いて「郁子は大丈夫なんですか?」と心配そうな顔をする。
「傷はたいしたことないんだ。今は眠っているよ」
 そう答えて、違和感をおぼえる。

 妻の電話で病院に駆けつけた。
 頭が真っ白になった。
 傷。
 命には別状ないと聞いて心底安心した。
 しかし、娘がなぜこんなことを。

 それらは事実なのだが、自分はおかしなことを言ってしまった気がする。
 だが、頭に霞がかかってしまったようにはっきりしない。
 さきほど看護婦からもらった鎮静剤が効いているのかもしれない。
「郁子は」
 少女のはっきりした声音が、彼の思考を遮る。意を決して振り絞るような声だった。
「お父さまの事で悲しんでいました」
 男の、――坂井正平の意識が少し明瞭になる。
 少女の言わんとすることを推し量るように、改めて少女の顔を見ようとする。
 けれど彼女は完全にうつむいてしまって、表情も伺えない。ただ悲痛さすら感じさせる声だけが聞こえる。
「難しい言葉ばかりで、意味は良く分からなかったけど、お金の事なんだと思います。お父さんは、お仕事で正しくない事をしているって」
 坂井は硬直した。
 それは一時のことで、すぐさま思考をフル回転させようとする。いつものように、政敵を退ける時のように。
 けれど空回りする。考える事そのものが億劫になる。頭がうまく回らない。
「郁子は苦しんでいました」
 また、少女の声で思考がかき消される。
 続ける少女の声はか細く、言葉にならない。
「お父さんの事は好きなのに……、どうしよう、どうしようって……、こんなこと知らなければよかったって」
 最後には涙声で言いよどむと、少女は伏せた顔を手で覆い、肩を震わせた。

 坂井は肩を落として顔を伏せる。
 それは、覚悟していた事ではあった。
『正しくない事』とは、幼い表現であるが、まさしくそのとおり。
 だから、いつか誰かに告発される場面が訪れる事も想定していた。
 対処する算段も用意していないわけではなかった。
 ただそれでも、自分が咎められる事はあっても、家族には手を出させない、守りきろう、そう覚悟していた。
 気づけば、坂井は落涙している。
 いくら策を弄してみようとも、これでは張子の虎。
 守るべき愛娘を苦しめ、自傷に追い込もうとは、自分を叱責する言葉も無い。

「けれど、お父さまは全てをおっしゃっていません」

 耳元でささやかれたような気がして、思わず顔を上げる。
 だが、少女はさきほどと同じように立っている。ただ、顔は上げていて何か思い出すように宙を見つめていた。
「学園に藤棚があるんです。淡い紫色の花が幾重ものカーテンのようで、入学式のとき郁子と眺めていたのをおぼえています。以来、あの子のお気に入りでした」
 そういえば、食事の席で聞いたような気がする。寡黙な父親の分を埋めようとするかのように、郁子はとても喋った。
 嬉しそうに語る目の前の少女と同じように笑みを浮かべていた娘が思い出される。
 転じて、少女のトーンが下がる。
「けれど、今年になって様子がおかしいと、葉色にツヤがなくなって元気がないと……。寂しく思った郁子は、先生がたに聞いてみたのだそうです。先生がおっしゃるには、藤棚は剪定とか専門的な世話が必要らしく、業者の方にお願いしていたのだそうですが、今年から雇うことができなくなったのだと」
 少女の言は分かるが、意図が分からない。困惑する坂井に視線を戻すと少女は続ける。 
「政治の世界は、私、よく分からないのですけど、こういうことをなんとかすることも、できるのではないですか?」
 なぜか少女の言葉に吸い寄せられる。何か重要なことを告げられている気になる。
 人生で幾度か訪れる岐路に立たされたとき、まるで天啓のごとく選ぶべき道が閃いたときのように。
 ただこれが、思考が鈍くなった分、五感が過敏になっているだけの事に坂井は気づかない。

「まだ元気だった時の郁子がよく言っていました。お父さまは、ご自分の事をお話しにならないと」
 問われれば答えてもいただろう。それこそ事細かに、喜んで語った事だろう。
 大事な家族を支えるべく、身を粉にして、心血注いだ自分の仕事を誇れないはずがあろうものか。
 だが、坂井は多くを語ろうとしなかった。子は親の背中を見て育つという。
 もはや陳腐な方便かもしれないが、けれども彼はそれを良しとした。自分の父がそうであったように。
 むしろ多弁なのはメディアの方である。汚職だの献金だの、不正だ疑惑だと挙げ連ねるのは、社会のはけ口になる悪役が欲しいだけだ。
「郁子は、お父さまの本当の意味で立派なお仕事を知らなかったから、こんな事になってしまった」
 そうだ、偏った知識が、このような行き過ぎた事態に導いてしまったのではないか。
 間違っているのなら、正せばいい。それもまた親の務めだ。
 娘は父親に失望してしまっているだろう。
 けれどそれがなんだというのか、最初から始めればいい。地道に一歩づつ。
 有権者一人ひとりを解きほぐしていく事と同じだ。こつこつと積み重ねていく作業、なんのことはない、今までやってきたことではないか。

 坂井の顔色が少し良くなったように見えた。
 少女は頷いてみせる。
「ごめんなさい、私みたいなのが偉そうな事を言ってしまって」
「とんでもない。学園の設備については、学園長と話をしてみるよ。ありがとうお嬢さん」
 坂井は何か気づいて言いよどむ。
 それを受けるかのように、少女は微笑んで見せた。
「神野恵です。お父さまとお話ができてよかったです」
 そう言って満面の笑みを浮かべる少女の顔には、涙の跡など何処にもなかった。




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