S13久川宅U

 非常階段を上りきる手前で、腰を落として重心を下げる。
 駐車場に摩耶の車がないことは、すでに確認している。
 吉巳が身を潜める階段から、借りている部屋の玄関まで5メートル少々。玄関前に立つ人影からは警戒している気配こそ感じないが、学生服ではなくスーツ姿で、加えて上背もある。
 学園とは無関係な者かもしれない。だがそうでない場合、不意打ちに失敗するとやっかいなことになる。
 今回転居した部屋は、元々公団住宅であった年季の入ったマンションの2階。建設当時の低い防犯基準のせいで、極端に照明の数が少なく、当然のごとくオートロックが施されたロビーなどもない。建物周辺も似たような有様で、建物からすぐの駐車場ですら、当時の緑化政策のあおりか随所の植樹のせいで暗がりが多い。
 こんなことならセキュリティのしっかりしたマンションにしておくべきだった。などと内心愚痴りつつ、階段から飛び出した吉巳は、一気に人影との距離を詰めた。

「なんだ、未治センセか」
 悲鳴すら上げる間もなく、背後から首をねじられ、右腕もワケの分からない方向に極められたのでは、男は答えることもできない。
 相手の素性が知れた吉巳はすぐに戒めを解いた。両膝をついてゲホゲホと咽ているのは、摩耶の大学時代の同僚である未治とか言う男である。卒業後も職業柄、なにかと交流のある相手だ。
「なんだとはなんだ、せっかく顔を出してやったのに」
 なんとか回復した未治は、いかにも学者風な青白い細面を上げた。恩着せがましい表情で顔をゆがめてみせる。ついさきほど自分が受けた仕打ちに一切触れないのは一般常識としておかしいが、吉巳との間柄ではあたりまえとなっていた。吉巳も未治を気遣うそぶりはまったくなく、玄関を開錠している。
「学生は忙しいんだよ。犯罪心理学のセンセとは違ってね」
「犯罪行動科学、だ。それにここに来たのも、たまたま別件で立ち寄っただけだ、暇なわけが……」
 言いながら立ち上がり、メガネの位置を正す。さっさと部屋に入る吉巳にノロノロとついていく。
「……そうだ、時に、連続暴行者暴行事件って知ってるか?」
「なんだよそれ? ……って、オヤジガリ狩りね。二日ほど前にこの辺であったっけ」
「その呼び方はやめたまえ」
 キッチンとリビングを抜けて自室のドアを開ける吉巳。
「なるほど、それで本庁きっての、名プロファイラーがご登場ってワケね」
 あいかわらず顔を向けることもなく、適当にコメントする吉巳に未治は律儀に答える。
「そうだ、なにしろ我々は専門家だからな。質もまちまちな民間委託とは違う。知っているか? プロファイラーという言葉はあるが、公に認定する機関なぞどこにもないんだぞ」
「……」
 そこでようやく未治は気づいた。吉巳がこちらを見ている。というより、睨んでいる。
「で、久川はどこだ?」
 やっと本題か、とため息をついた吉巳は、クローゼットからなにやら荷物を取り出しながら答える。
「センセなら夕方、会議に出かけたよ」
「どこの?」
「東京」
「なんの?」
「なんだよ、あんたんとこの予犯委に決まってるだろ」
「失敬な、あんなつまらない調査に税金を無駄遣いするような奴らと一緒くたにするな」
 リビングで突っ立ったまま未治は憤慨して付け加える。
「……まぁ中教審が出しているから、かまわんが」
「無駄さ加減じゃ似たもの同士だと思うけど」などとつっこみつつ、ダンボールを下ろす。重量があるものなのか、ガチャリと音をたてる。
「私がここに来たのは、その予犯委の連中に、久川の様子を見てくるよう頼まれたからだ」
「ちょっと待て」
 鋭い口調で吉巳がさえぎった。
「それでなんでアンタが頼まれるんだ?」
 ブレザーから携帯電話を抜き出すと、そのまま脱ぎ捨てる。さきほどより動作が機敏になった吉巳は、片手で携帯電話を操作しながら、ネクタイを解く。
「近くに来たからな」
「違う、どうして予犯委は直接連絡しない?」
「連絡しようにも自宅は誰も出ないし、久川の携帯も……何を慌てている?」
 携帯電話の応答がないことを確認して通話を切ったころには、すでにシャツも脱ぎ捨てていて、上半身が下着姿になっていた。
 そこでようやく吉巳は未治に顔を向けた。本人は恥らう風でもなく、そっけなく答える。
「アンタも慌てるんだよ」
「なっ」
 憤懣やるかたない思いで吉巳を凝視する未治だが、彼女の左肩の異様が見えると、思わず視線をリビングに逸らした。
 左肩のシルエットが変形するほどの裂傷。もちろん傷口は塞がっているが、奇怪にただれた傷跡はスポーツブラのカップに届くほど大きい。
「とりあえず失踪届け、それに犯罪記録にセンセが巻き込まれてないかチェックして。期間は今から2時間前、市内限定でいい。あとこっちは可能性薄いけど、交通事故の記録もよろしく。車番は後で教えるから、それと災害記録の方もあたっといて」
 開いたダンボールを物色しながら、間髪いれず指示を飛ばす。
「あ、そうだ、ついでにウチの学校の、今まで学園長に就いていた人物のリストもお願い」
「そんなことやってられるか、今日だって県警の連中と会議があるんだぞ」
 さすがに横暴さを感じたのか、未治が吉巳に向き直る。
「あんなアバウトなプロファイルなんてすぐできるでしょ。頼んだからね」
「なんだソレは、それが人にモノを頼む態度か」
 それには答えず、ダンボールから皮製のグローブのようなものを取り出すと、吉巳は未治を睨みつけた。
「なにガキみたいなこと言ってるんだよ」
「やかましい、調査にかこつけて、オマエが久川のよからぬ陰謀の片棒を担いでるのは知っているんだぞ、それが上に知れたらどうなるか解っていてそういう物言いができるのか?」
 黒いバッテリーの付いたベルトを腰に巻き、両手にグローブをはめると、吉巳は乾いた笑い声をあげた。
 立ち上がった吉巳は、未治の真正面に立つ。
「そういうアンタも分かってて言ってんのかね?」
 拳にした両手を胸の前で合わせる。ちょうど指の付け根にある金属質の突起物が触れ合った瞬間、鋭い炸裂音とともに青い火花が散った。




scene12 scene14