S15久川宅V

「久川吉巳くんだな?」
 声を掛けてきたのは、学内で見かけた体育教師の男だった。屈強な体躯にジャージ姿で角刈り。とても分かりやすい。
 その背後に学生が4人見える。制服からして他校の生徒とわかる。
 吉巳は、無表情に体育教師を見据える。
 摩耶たちの部屋がある棟を出てすぐの駐車場に彼らは待ち構えていた。
 駐車車両を照らす街灯が点々とあるだけで、視界はよくないが、彼ら以外に気配はない。
「なるほど、対応の早さはそれなりということか」
 吉巳のつぶやきは耳に入らなかった様子で、体育教師は口を開いた。
「学園長が呼んでいる。ちょっと来てもらえないか?」
 台詞こそ丁寧であるが、命令口調である。
「曽根崎センセ、でしたよね? こんな時間になんでしょうか? それに後ろの生徒さんは?」
 対する吉巳の台詞も丁寧であるが、口調は挑発的だ。
 体育教師――曽根崎を取り巻く空気が変わった。ようするにキレた。しかしながら、あえてその怒気を抑える。
「久川、その持ってる物はなんだ?」
 吉巳は元の制服姿に戻っていた。ただ、帰宅したときと持ち物が変わっている。
 意を察した吉巳は、片手にぶら下げたソレを胸元に持ち上げてみせ、嫌な笑みを浮かべてみせた。摩耶に向けるよりも幾分邪悪さが増している。
「はぁ、ヘルメットですよ?」
 ふざけた口調の返答に、曽根崎の顔面が瞬時に紅潮する。
「バイクは学則違反って分かって言ってるのか!」
 大音声。たいていの学生であれば、この一喝で怯んでしまう。吉巳の背後でも似たような萎縮する気配。
 部屋を出て、吉巳に従えられてきた未治はこの状況にどう反応しているのか、後ろにいるはずの未治からは、なんの声も聞こえない。
 むしろ未治の気質からなんら期待できるものなぞあるはずもない事は、今の気配で察するまでもない。
「こいつらもオマエと一緒だ! 分かったらついてこい!」
 さらにダメ押しの一喝。
 しかし吉巳は怯まない。さきほどの嫌な笑みを浮かべたまま、曽根崎を見上げている。
 それどころか、声を上げて笑い始めた。
「かはは……。いや、失礼、そうか」
 ひとしきり笑うと、吉巳は言葉を継いだ。
「……そうか、学生たちとは違うんだな」
 吉巳の落ち着いた対応に、曽根崎の怒気が引いていく。
 さきほどの彼の怒気は、感情を伴ったものではない。演技といってしまうと身もふたも無いが、冷静でありながら怒鳴らなくてはならない場面は、彼の職業柄往々にして在る。学生を叱責するのも彼の仕事であるからだ。
 むしろ――。
「じゃあ、アレだ」
 曽根崎の心中などかまわず吉巳は続ける。
 むしろ今も、怒鳴ったときですら冷静であったからこそ、吉巳を取り巻く空気の変化に曽根崎は気づいた。いつも生徒指導で相手する、若くて浅慮な学生たちの雰囲気に似ていなくも無い。
「聖職者たるセンセにこんな事を聞くのは、甚だ失礼だとは思いますが」
 頭一つ上背のある曽根崎にフルフェイスのヘルメットを掲げてみせる。
「無垢なる雛鳥」
 かざしたヘルメットで遮られた視界に、再び吉巳は顔を出して見せた。
「センセは、アレのお客だったりしたんですか?」
 などと言い放つと、ウィンクして見せる。
 にわかに曽根崎の顔面が紅潮する。否、むしろ、紅潮を通り越して赤黒くなる。
 演技とはいえ、日常的に情動を顔に出す機会が多いせいか、素の感情も表に出やすいらしい。
 先ほど以上に分かりやすいキレ方だった。
 それをきっかけにしたのか、はたまた単に焦れただけなのか、背後の4人が左右に二人づつ、吉巳を囲むように散らばる。
 対する吉巳は落胆のため息をつくと、ヘルメットを放り投げた。まるで曽根崎に預けるように軽く、パスするように。そしてぽつりとつぶやく。
「ゲスが」

 曽根崎がヘルメットを片手で弾いた時には、吉巳の姿はなかった。否、視界の右隅を何かが走った。
 街灯の明かりから外れた闇から、何かが路面にぶつかる鈍い音が聞こえ、次いで青白い閃光がカメラのフラッシュのごとく瞬く。
 野太い、男の叫び声が響いた。
 悲鳴とも怒声とも形容のつかない獣じみた声は、加勢に駆け寄ろうとした反対側の二人が躊躇で足を止めるほどのものだった。
 今の閃光で、慣れていたはずの夜目が利かない。
 曽根崎と残った二人組は、悲鳴のような声から一転して沈黙する暗闇に向けて、腰を落として構える。
 が、状況は彼らに落ち着かせる隙を与えなかった。
 闇から何かが投げ出されてきたのだ。さきほどのヘルメットなどとは違う、もっと大きい。
 それは人だった。一瞬の事に二人組は、本能的に両手で顔を保護することしかできなかった。荒事に場数があったとはいえ、人が降ってくるなど対処できるはずもない。
 まるで、飛ばされてきた仲間を受け止めるような姿勢で、そして支えきれず二人とも押し倒される。
 それを呆然と見届けた曽根崎が、弾かれたように振り向いた。
 恐怖心に駆られたとき、なんら変哲も無い物陰から何かが飛び出してくるのでは、と妄想させられる。それに似た感覚が急速にリアルなものとなって彼を突き動かしたのだ。
 その具現たる影が、何者をも阻むことを許さぬスピードで、路面スレスレを疾駆する。刹那に衝撃。

 昏倒した仲間を押しのけた二人組は、目の前の光景に唖然とする。もはや、すべてが終わっていた。

 立っているのは女子生徒だけ。肩幅ほどに足をひろげ、矮躯をしっかりと支えている。
 伸ばした左腕の先には、だらりと体育教師がぶらさがっている。左手が喉に食らいついていた。
 まさしくその姿は獲物を誇示するかのようだ。

「急いでるんだ、とりあえず聞くよ。センセは、久川先生はどこにいる?」
 計算づくで調整された吉巳の握力は、かろうじて曽根崎に答える機会を与える。
「し、知らない。俺は連れて来いとだけ」
 さきほどまでの怒気は見る影も無く、その声はか細い。
 もはや彼の戦意喪失は明らかだ。

 得体の知れない衝撃を受けて身体の自由が利かない。
 何が起こったのかも分からない。
 状況が見えなくなれば、まず引き起こされるのは混乱だ。だが今、彼を蝕むのは恐怖。
 四肢の自由を奪われる恐怖、喉笛を敵に晒す恐怖、そんな状況に大の男を陥れたのが、たった一人の少女であるという恐怖。
 だが、彼には別の恐怖もあった。
「頼む、分かった。頼むから、黙って来てくれないか?」
 恐怖から逃れるには、懇願しかない。
 恥も外聞もない。悲痛に顔をゆがめながら、かろうじて開けられた気道から精一杯の声を絞り出す。
「悪かった、すまなかった。けど、頼む。ただ来てくれるだけでいいんだ」
 恐怖の只中において、それから逃れる術に気づく彼はまだ堅実だったのだろう。
 吉巳は、黙って曽根崎を見つめている。
「でないと、あいつらに何を……、あいつらは何をしでかすか分からない」
 執行猶予を与えられたと思った曽根崎は、とにかく思いつく事を口に出した。沈黙してしまえば終わりだ、とも思った。
「本当だ、俺のように脅されて動いてるヤツだけじゃない。気味の悪い呪文とか携帯電話で操るんだ、本当にワケが分からない、あいつらは、あいつらは」
「無垢なる雛鳥?」
 確認するように吉巳が言う。
「そうだ、あいつらは学園内だけじゃない、他の学区や自治体すら握っているんだ」
 ともかく喋れば解放されるかもしれない。根拠もない希望に縋る。
 だが、吉巳はおもむろに鼻で笑って見せた。
「嘘じゃない、生徒の親を使ってるんだ、そうやってコネをどんどん広げて……」
 吉巳は「曽根崎先生」と、彼の言をにべもなく遮った。
「あなたは、あたしの質問に答えていない」
 吉巳の左手に力がこもる。
「知らない、しらないんだ。そんなことより、たのむ、でないと、オレは、オレはっ」
 吉巳は視線を逸らした。事態の収束を無意識のうちに嗅ぎ取った未治が駆け寄っていた。
「オイ、これはいったいどういうことだ」
 台詞に比べ、その声には張りがない。
「まぁ、ガクセーのコミュニケーションってやつさ。オトナな未治センセには縁遠い世界だよ」
 ふざけた口調で応えると、捕らえた獲物を乱暴に路面に落とす。小刻みに痙攣する曽根崎はすでに意識がない。

 不意に吉巳は、駐車場の入り口に目を向けた。
 未治も吉巳の背中越しに、人影へ視線を飛ばした。吉巳が見ているからそれに習ったというワケではない。気配、ということなのだろうか、間違いないのは、何者かがこちらを見ていると感じたせいだ。それゆえの反射であった。
 不思議なことに、視線というのは感じることができる。
 だが、平素はその視線の意図まで汲み取ることは出来ない。
 だというのに、未治は狼狽する。この嫌な緊張感はなんなのか。
 入り口に人影が見えた。人数も測れない距離なのではっきりしないが、それぞれのシルエットが異なって見える。学生であるはずもない。
「未治センセ、さっき頼んだこと覚えてる?」
 人影がこちらへ動き出し、風貌があらわになる。所轄警察の防犯課が相手にしているような、粗野な連中。
 以前、プロファイリングの資料として所轄から取り寄せた映像とダブる。
「あのね」
 言いながらこちらを振り返る吉巳に、いまさら気づいて「ああ」などと、とりあえず生返事する。
「犯罪記録、調べといてよね。それと、マンションに戻ったほうがいい。裏口も押さえられてるだろうから」
 そう言われて未治は、はっとする。無意識に考えていた脱出経路が塞がれている。すでに取り囲まれているのは、しかし、落ち着いて考えれば至極当然といえるだろう。
 吉巳の言うことは正しい。彼女の指示に従うのが得策だろう。なにより自分が無事でなければ久川のことを調べられない。
 未治はマンションへきびすを返そうとするがしかし、黙って従いたくなかった。とにかく何か言い返さなければ。
 それは、ささやかなプライドを守るための、ささやかな抵抗であった。
 逡巡したあげく、未治はようやく気づいた。
「おまえ、なんで笑ってるんだ?」




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