S17学外T

 標的を見失わない程度の距離を保って、無理に追わない。
 対象である女子高生は、全力疾走と思われる速さで追撃から逃れようとしている風に見える。
 仮に本気で距離を詰めようとすれば、追う側は追われる側以上の脚力が必要なのは当然で、もし持久力のある相手であれば、こちらが先にバテて取り逃す結果すらありえる。
 とはいえ、相手はただの女子高生。
 背中まで伸びた赤毛が特徴といえるかもしれないが、背格好もいたって標準的で、こちらを出し抜く体力があるとは思えない。
 何をそれほど慎重になる必要があるのか、と思わないでもないが、指示には従わねばなるまい。
 とにかく、今は見失わなければいい。
 と、唐突に標的が足を止めた。まっすぐ向かえば駅に出るその方角に、彼らの仲間の姿が見えたようだ。
 足を止めたのは一瞬で、すぐさま細い路地に駆け込む。

――

 膝上の地図にペンで何箇所かチェックを入れると、青年は大きく伸びをした。車内とはいえ、内装の広さは高級車たるゆえんで、なにも邪魔にならない。
 地図には赤いマークと青いマークがいくつもあり、それぞれ同じ色の線でマークが結ばれている。その軌跡は、一本の赤い線を複数の青い線が取り囲もうとしている風であった。

 実際にやってみて分かったことだが。と青年はため息をつく。
 逃げる対象をこちらの思う方向へ追い込むのは、とても難しい。対象を完全に包囲できる人数がいないと今の自分では到底無理だ。けれどそれでは本末転倒というもの。今回は対象を消耗させるだけでいいのだが、試してみて正解だったと彼は思う。だが、そういった難しさよりも――。
 運転席から聞こえたドスの効いた声に、彼の思考は遮られた。
「佐藤が見つけやした、港町通りを西へ」
 吉巳たちと同じ学生服姿の青年は、慌てて地図を見る。新しくマークを付け、先ほど付けたマークと結ぶ。
「駅へ向かうのをやめて撹乱するつもりか。なら、後藤さんが引き継いで追撃を。佐藤さんは迂回しつつ西へ。……あ、そうか、鈴木さんたちは南へ」
 後部座席の青年から指示を受けた運転席の男は、手早く指示を無線機に伝えると「そんな感じですぜ、坊ちゃん」などと笑いながらタバコの灰をドアの外へ落とした。

――

 大通りを避け、路地裏に入り、手当たり次第に曲がり角を曲がる。
 すでに8度にわたって行く手を阻まれている。というよりもはや、先回りされているのは確実だろう。
 複数のグループが吉巳を追撃していて、さらに各々が連絡をとりあって、包囲の範囲をじわじわと狭めている。統率された動きだ。
 吉巳は走りながら、腰にぶらさげたバッテリーのスイッチを入れる。
 進行方向10メートルほど先に追撃グループの1つが姿を現す。鼻ピアスにニットの帽子。知っている人相だった。
 吉巳は、先回りされる度にグループの人相を記憶し、照合していた。
 結果、三人組が2組と、四人組が1組の計3つ。
 速度を落とすことなく、5メートルほど先にある曲がり角に飛び込む、と同時に右拳を振り上げる。

 入り組んだ細い路地。追撃グループは吉巳との距離を縮めるしかなかった。別グループが先回りする前に見失う可能性が高くなったからだ。
 柔軟に対応するならば、グループを分割する事もできただろう。だが、これらのグループを統率している指揮官はそれをしない。否、むしろ今回の場合、そういった発想に至らないというのが正しいだろう。
 それはつまり、指揮官がグループ内に居ない事を意味する。状況を俯瞰できる位置に指揮官を配置するのは正論であるが、俯瞰できるがゆえに、1グループを1つの駒と思い込んでしまうのだ。
 手駒は3つ、という固定観念が自動的に植え付けられてしまっている。

 ならば、追撃する1グループ、進行方向にもう1グループ。残った1グループは退路を塞ごうとするだろう。
 吉巳は大きく眼を見開き、口元を吊り上げた歪んだ笑みを浮かべながら、右拳を振りぬいた。
 青白いフラッシュと共に短い炸裂音が響く。
 残りのグループの一人が崩れ落ちる。
 90度ターンの最中の、無理な姿勢から繰り出した一撃は、確かに威力は劣るものだった。だが、吉巳にはそれで充分だった。

 腰のバッテリーから伸びた銅線を包んだ太いゴムケーブルはバッテリーから制服の内側を伝い、袖を通して両手にはめたラバー製のグローブにつながっている。
 手の甲側の指の付け根に電極がいくつか剥き出しになっていて、銅線はそれに繋がっていた。
 形状は特殊であるが、いわゆる非致死武器である。
 海外の警察が装備するスタンガンがその代名詞とされているが、スタンガンは筋肉を弛緩させる独自の電気インパルスを対象に送り込み、対象の動きを封じる仕組みである。
 だが、吉巳の使うソレは、高電圧を瞬時に送り込み感電させるという、単純な構造でありながらも凶悪な代物だ。
 とてもじゃないが、護身用などとは言えず、「非致死」であるかも怪しい。

 結局、吉巳は曲がりきれず壁に激突してしまう。
 足元のポリバケツが派手に蹴散らされる。しかし、明らかに、その一つが異なる軌跡を描く。
 出遭いがしらの先制攻撃に不意を突かれて、あまつさえ仲間を一人失ってもなお、標的を捉え続け、次の機会を伺う余裕をもてたのは本職たるゆえんであった。
 だが、そこまでだった。惰性で姿勢を崩しながら蹴りを放つなぞ、彼にとっては埒外な挙動であった。弧を描くポリバケツが視界をふさぐ。

 人が力を込める時、身体のどこかを捻る事によってそれを成す。手首のスナップ、腰による溜めなどがそうだ。
 しかし反面、力を放ったあとに振り戻しが起こる。これが隙になる。
 吉巳の所作はそれらの真逆の法則で成されていた。身体の軸は常にまっすぐに、本人は「梃子ではなく回転」と表現していたが、これは日本の古武術に通ずるところがある。
 動きをコンパクトに内包するそれは、西洋化以前において、むしろ一般的であり、小柄な東洋人向けの体術であった。

――

 逃げる対象の心理を先読みし、追い込むというのも難しいが、そういった難しさよりも、間接的に指示を出す事の難しさは体験してみないと分からない。運転席の男は慣れていると聞いたが、さすがの余裕に青年は素直に関心する。と同時に彼は、背筋に震えるものを感じる、けっして悪い感じではない。

 ――キミは優しい人だよね。みなが敬遠する当番もかってでるし、争いも好まない。
 ――そして、賢い人だよね。みながキミから少し距離を置いている、いや、正直恐れられていることも、理解している。
 ――本当のキミはどっちなんだろうね。

「鈴木、どないした? 阿呆、返事せんかい」

 ――お父さんのせい?
 ――そうなんだろうな。実はお父さんも分かっているんだ。だから、お父さんはキミに理解してもらいたいと思っている。キミも少なからず理解しているんだろ? お父さんも、みなが敬遠するような役割を担っているってことを。
 ――ただ、ちょっと荒っぽいだけさ。だからお父さんは、今のお父さんの仕事をキミに、良い方向へ使って欲しいと願っているんだ。
 ――キミは優しくて賢いけど、非力だ。ねぇ、本当のキミはどっちだと思う?

 青年の口元に笑みが浮かぶ。あの出会いがなければ今の自分はないだろう。

 ――どっちもだよ。『キミ自身が持つイメージと周囲が持つイメージに、ギャップを感じて苦しい』のは、キミが自分に欠落しているモノを、既に手にしていることに気づいていないからなんだ。

「ほんとうに……簡単なことじゃないか」
 それは愉悦の笑みだった。

 刹那、運転席から奇声が上がった。我に返った青年の目には上半身が窓から引きずり出された男の姿があった。
「そう、犬だよ」
 車外から女の声が聞こえる。
 男は抵抗しようにも、両手が窓口に引っかかって何もできない。
「あたしは、どうも人に命令されてるのが好きらしくって、正直安心するんだ。でも……なんてのかな。命令する人間がいなくなったら居なくなったで感じる、開放感みたいなのってあるよね」
 ドアにもたれかかるように立つ、青年と同じ学園の女子生徒。彼の視界からは分からないが、彼らが追っていた久川吉巳であった。彼女の右手は男の喉笛をつかみ、左拳は男のこめかみを狙っていた。
「今はそれを思いっきり感じてるよ」
 乾いた炸裂音とともに、男の体が一度だけ痙攣する。吉巳はロックを解除すると、すでに抵抗しない脱力した男の体ごとドアを開く。
 すぐさま集中ロックのボタンで他のドアのロックを解除する。
 吉巳が青年の横のドアを開くまでの間、彼は微動だにしなかった。

「よく場所が分かったね」
「指揮官ってのは、どこでも人材不足なんだよ。つたない運用だったからすぐに分かった。新兵とは違って新米指揮官の教練は、現場から距離を置くのが基本さ」
 冗談めいた口調で答える吉巳だが、顔は決して笑っていない。対する青年に表情は無く、また彼の視線は、シートについた吉巳の片膝あたりに向けられていた。
「あんたは」
 少し青年の冷静さに不審を感じつつ言葉を継いだ。
「神野恵では、ないのか?」
 唐突に聞こえた音楽に不意を突かれたのは確かだ。それ以前に、吉巳はちょっとした混乱に陥っていた。だから彼の繰り出したナイフを交わしきれなかった。
 青年の携帯電話から『禁じられた遊び』が流れている。

「ああっ、しまった!」
 吉巳がつい悪態をついてしまったのは、脇腹にナイフを刺されたからではなく、反射的に反撃してしまったからだ。
 咄嗟に青年の携帯電話を奪い取って車外に出る。携帯電話は着信を告げていた。通話ボタンをクリックするが、ほぼ同時に通話が切れる。
 その間、注意深く周囲を見回してみるものの、人の気配はなかった。吉巳の憶測が正しければ、この状況を監視している人間がいるはずだった。
 目の前の車両の静かなアイドリングだけが聞こえる。
 改めて携帯電話の液晶画面を見ても、無機質な待ち受け画面が表示されているだけだ。
「可能なのか? こんなものをトリガーに」
 つぶやいて思考を断ち切る。まずはこの場から離れる事が優先だ。
 奪った携帯電話をそのままブレザーの内ポケットにしまいこむと、吉巳は再び車内に戻る。

 青年は昏倒している。当分意識は戻らないだろう。
 逆に、吉巳を追撃していたグループが指揮官との連絡が途絶していることに気づくのは時間の問題だろう。
 今になって腹部の痛みがはっきりしてきた。アドレナリンが薄れてきたためか、出血を抑えるために、あえてナイフを抜いていないからだろうが、いづれにしろこの状態では、青年を拉致って尋問するというわけにもいかなくなった。
 吉巳は手早く青年の上着を物色しはじめた。




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