S19カラオケボックスT

 暗がりを照らす灯火は、弱く心もとない。
 ぐわんぐわんと響くノイズも、たしかに、吉巳の知る過去の情景に似た臭いを感じさせる。
 連なったソファーの向こうには、大型テレビが落とす影。
 不意にその影が息づいたかのような錯覚に陥る。

『訓練で痛覚は無視できるというが、あれは概ねウソだ』
 影が語りかけてくる。
 タバコと酒で焼けた男の声。重ねた年月の疲れを感じさせるしわがれた声。

『でも、ステイツの連中はそうでもなさそうだったよ?』
 受け答えるのは、真逆の若い声だった。
 少し赤みがかった黒髪の、東洋系の子供。外見からまだ性別の区別がつかないほどの子供の声だった。
 ここが日本であれば、小学校の上級生といった年頃だったろう。

 影の先端がスッと延びる。棒のように延びたその影は少し傾いて、元の影に突き刺さるように止まる。
『海兵隊だろ? ありゃ、グアンタナモで開発された薬でドーパミン漬けにしてるからだぜ』
 いつのまにか実体を伴った影が、カカッと笑う。
 伸ばしっぱなしの灰色の髪と髭で、人相もわからないような頭が、ボロ布のような身なりの上に置かれている。
 まるきり世捨て人のような、路地裏などでみかけそうな老人であるが、手元から延びた異様に銃身の長い狙撃銃が目を引く。
 日頃は寡黙な老人も、酒が入ったときは饒舌になる。目の前の子供は知っていた。

『どのみち、ワシらのようなパートタイムには関係ないがな。だから、痛い時は泣いても喚いても構わない』
 子供の方はといえば、老人の言葉を適当に聞き流している。所詮、酔っ払いのたわ言。
 それよりも大事があると言わんばかりに、ロシア製の小銃の手入れに執心している。老人から預かったものだ。
 小銃とはいえ、子供にとっては抱えきれない得物であるし、フォアグリップがあっても構えるのに苦労するだろう。
 それでも、丁寧にガンオイルで浸したパーツを慎重に組み戻していく。老人が銃の手入れを任せるというのは、それはとても大事な意味があるからだ。
 ぐわん、ぐわんと、市街の爆撃が響く。

 携帯電話のバイブレーションで浅い眠りから引き戻される。
 テーブルの上の2つの携帯電話のうち、着信を告げている1つを取り、時刻を見る。とりあえずの治療を終えた吉巳が、カラオケボックスに入って1時間ほど経過していた。
 流しっぱなしにしていたカラオケのボリュームを下げると、発信者を確認して通話ボタンをクリックする。
 羽織っていたブレザーを横にやり、ソファーに寝転んだまま脇腹を確認する。
 あてがわれた脱脂綿に付いた染みは、赤黒く変色している。
 剥がそうとするとメリメリと凝固した血液が音を立てるので、そのままにする。
「くそ、やっぱり痛いよ、じいさん」
 苦笑まじりに吉巳はつぶやいた。
 とはいえ、普通に動く分には問題なさそうではあった。
 足元には血で染まった脱脂綿が散在している。

『おい、聞いているのか?』
 スピーカーから、いらついた神経質な声。未治であった。
「もちろん、聞こえてる」
 未治との別れ際に依頼した報告を聞きながら、もう一つの携帯電話を操作する。さきほどの乱闘で男子学生から奪取したものである。
 着信履歴には、同じ番号が並んでいて、ちょうど20分おきの着信時刻が表示されている。
 吉巳の携帯にも、摩耶の携帯番号からの着信がいくつかあった。
 いづれの着信も無視を決め込んだ。
 交渉の場には、勝てるカードがなければ立ってはならない。
 摩耶が押さえられているのは確実だった。そして摩耶が盾にされてしまえば、こちらは打つ手がない。
「センセが無事だってのは、どうやら確からしいね」
『あと、学園長の件だが、どうする? 名前を列挙していいのか?』
「どうせ全員同じ姓なんだろ? 名門私学だからね」
 電力の切れたバッテリーとグローブをブレザーに包み、シャツに腕を通す。
『そうだな、7年前に就任した現学園長の永臣氏まで、全て神野家が務めている。大正9年に旧制中学として創立。そこそこ歴史はある方だな』
「未治のクセにやるじゃないか。じゃあ、次は神野家の係累図だ」
 身支度を済ませ、カラオケボックスから出る。
 廊下は他の部屋の歌声で騒がしかった。
「あ? なんだって?」
『手元にあると言っているのだ。職員名簿代わりにこんなものを寄越すとは、さすが私学だな』
 未治の報告を聞きながら、階段を下り、カウンターのバイトらしき青年に部屋番号を告げる。
 応対もロクにしないバイトは、片手で私物らしき携帯電話をいじりながらカウンターの端末をたたきだした。
『昭和22年に就任したのが初代学園長の長男なのだが、それ以前の係累は紛失しているようだな。欠損だらけだ』
 未治の報告を聞きながら、コツコツと、空いた手でカウンターを叩く。
 その向こうに一瞬、バイトがいじっている携帯電話の液晶画面が見えた。
 学園の制服姿で、目つきの悪い赤毛の女子生徒の画像。吉巳は目を細める。
 はたしてバイトは、請求額が表示された画面を吉巳に向けて、おざなりに金額を復唱するだけだった。

「じゃあ、初代学園長の家族は?」
 店を出でるまで沈黙していた吉巳は、未治との連絡を再開してみるも、その答えは期待したものではなかった。須藤が言っていた『戦前の記録はない』というのは事実らしい。
 とりあえず繁華街の雑踏にまぎれる。
 すでに終電は終了していて、かといって始発まではまだ時間がある。微妙な時間帯ではあるが、往来はそれなりにあった。
 制服姿の学生も普通に見かけるのは、土地柄なのか、それとも。
 そんな雑踏に見知った姿を見つけて吉巳は驚いた。
「さっき、今の学園長の事も言ってたよね?」
 と、同時に思い出したように問いかける。
 未治の応答を聞きながら足早に近づいた。本当なら居てはいけないはずの人物。背後から肩を叩く。
「なにやってるのさ、こんなところで」
 振り向いた男子学生は須藤だった。
「え、あ、久川さん?」
 戸惑う須藤をとりあえず捨て置く。
 未治から欲しかった情報を聞き出すと、挨拶もせずに携帯電話を切って、その手で須藤の肩を掴むと、有無も言わさず路地裏に引っ張り込む。
 されるがままの須藤は、驚いた表情で、吉巳をつま先から頭まで何度も見かえす。
 須藤の反応は仕方ない事だった。
 吉巳は、肩口まで髪をばっさり切り、男子の制服に着替えていたからだ。これもさきほどの乱闘で男子学生から拝借したものだ。元が中性的な顔のつくりである彼女は、普通に馴染んでいた。
「帰るな、と言ったのは、あそこに居ろという意味でもあったんだけどね」
 きつめの口調で再度問いただす吉巳に、ようやく状況が飲み込めたのか、申し訳なさそうに須藤は作り笑いを浮かべた。
「いや、帰りが遅いから、手分けして探そうって事にしたんだ」
 何か言おうとして吉巳は硬直してしまった。
 たしかに須藤がこの有様であれば、佐古も同じように吉巳を探しに外に出ているだろう。当たり前の状況判断を、須藤が言うまでに気づけなかった。
 逆に、思った以上に自分が焦っていることに気づく。
「分かった。とにかく合流しよう」
 言いながら、携帯電話を取り出そうとして、手が止まる。
 二人とも携帯電話を持っていない事を思い出した。それを念押しするように須藤が言う。
「学園で合流することにしてるんだけど」
 相手が摩耶であれば、罵倒の一言もあったかもしれない場面であるが、黙って飲み込む理性が吉巳にはあった。
「なんでそんなところに」
「いや、ホラ、カバンとか忘れてるからさ」
 まるで当たり前のように言う須藤。
 吉巳は改めて彼を真正面から見つめると、少し顔を近づけて鼻を鳴らした。
 他人を気遣うほど余裕があるように見えて、実はまだパニック状態にあるのか。
 むしろ、一連の異常な展開から、日常的な流れに戻ろうとする揺れ戻しが判断を狂わせているのかもしれない。
「鼻炎? そういえばずっと具合悪そうだったもんね」
「いや、少しはマシになってきたみたい」
 有体に答えると、丸めて持っていたブレザーを、中身ごと手近なゴミ箱に放り込む。
「とにかく佐古さんと合流しよう」
 言うと路地裏を出て吉巳は歩き始めた。




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