S20応接室Y もうどのくらい、この応接室にいるのだろうか。 室内には時刻を示すものが一切なく、摩耶の背後にある窓は、厚手のカーテンが引かれていて、外の明かりは見えない。 まったくもってシンプルな室内で、家具といえば出入り口の脇にあるカウンターに、摩耶が腰掛けているソファーとセットのテーブル。あとは、そのテーブルの向こう側にある一対のシングルソファー。 「影響力といっても、そんな大げさな事じゃない。ただ、我々のお願いを聞いてもらうだけの事なのさ」 言いながら、神野恵は、パチン、と指を鳴らす。 「元々が共通意識である我々にとって、他者の意識をくみ上げるのは、実に簡単なことなんだよ。だから逆に我々のお願いを聞いてもらうのも、容易いことなのさ」 3人目の神野恵は、内ポケットから携帯電話を取り出した。 「その上これだ。いつでも連絡できる便利なツールだけど、ホラ、着メロってあるよね。発信者によって着信音が設定できる機能――」 カチカチと携帯電話を操作する。 「これで事前に予約しておいた『お願い』を聞いてもらえるのさ、テレビ番組を録画するようにね」 「後催眠なんて、あのねぇ」 あきれ口調で返す摩耶の反応は至極当然のものだ。 催眠暗示による意識操作、それを相手の意識に刷り込み、特定の条件で発現させる。元は深層心理学に基づく治療法の一つである。 しかし誰にでも通用するものではない。そもそも暗示自体、被術者の個体差によるところが大きい。杓子定規に誰でも暗示にかかるというわけではないのだ。術者と被術者双方の信頼関係も必要なのだ。 「我々には造作ないことなんだけどね。ま、信じてもらわなくてもいいよ」 その声は、目の前の女子生徒の背後から聞こえた。 四人目の神野恵の登場である。入れ替わるように座った彼女は、脇に抱えたノートパソコンを開くとテーブルに置いた。 いくつか操作すると胸の前で手を組んで思案する。摩耶に何か見せるつもりで持ち込んだわけではないようだ。 「しかし、先生の妹さんはすごいね。こちらもとっておきを繰り出したつもりだったんだけどね」 「あなたたち、いったい」 食い入るように見つめる摩耶を受けて、女子生徒はようやく顔を上げた。 「構わないよ、教えてあげても。でも先生が先だ」 たしなめるように微笑んで見せる。 摩耶はソファーに背中を預けて、肩の力を抜いた。 「あの子とは施設で会った」 「孤児?」 「違う」 「だろうね」 「ちょっと待って」 摩耶は大げさに眉をひそめてみせる。 「わたしはちゃんと情報開示するつもりなのよ。あなたも隠すようなことはやめてくれない?」 「妹さんの前の家族には連絡してみたよ。お母さんみたいだったけど、怒鳴られてすぐ切られた」 「あなたたち、とんでもないわね」 神野恵の論理性は破綻していない。吉巳に対する危機感は本物だし、それに対策も施している。 至極まともだ。神野恵は、ここでも正常な判断と行動を起こしている。 「どういった施設で?」 「被災者養護施設」 即答すると摩耶は続けた。 「彼女のお父さんが商社に勤めていて、家族で東ヨーロッパに住んでいたわ。当時10歳くらいだから、もう6年以上も前の話になるわね。そこで紛争が起きた。厳密には隣の国なんだけどね。アルバニア系住民とセルビア系住民の衝突、現代社会とかで習わなかった?」 問われた神野恵は片眉を上げて微笑んでみせて、先をうながす。 「その辺の事情は関係ないから割愛するけど、ともかく家族は無事帰国する。動乱のさなか、やむおえず娘を置いたままね。それから和平条約が結ばれるまでの6年間、あの子は戦場にいたらしい。詳しいことは話してくれないけど」 神野恵は、大げさにため息をついてみせた。 「さっき、久川先生は自分で言ったよね、情報開示はするって。――そんな話で」 「事実よ。被災者養護施設なんて聞いたことないでしょう? でもあるのよ。あなたたちの想像以上に日本人は海外の紛争に巻き込まれている」 摩耶の口調は、すでに先ほどまでの砕けたものではなくなっていた。 「よく考えてみて。世界で戦争や紛争といわれる争いは40箇所以上、渦中にある国は60カ国ともいわれている。あなたたちが知っている国はいくつある? テレビのニュースはどこまで伝えてくれている?」 施設に入所する被災者の中でも、未成年者の数は少ない。 たいていが報道関係、もしくはNPOに従事する成人だからだ。つまり、争いが起こっている場面に必要とされる人々が争いに巻き込まれるケースである。 稀なケースとして、吉巳の場合がそれにあたる。 本来、一般企業に対しては、外務省から渡航情報として危険地域は通達されている。だが、それすらもビジネスリスクの一要素として黙認する企業は在る。 「イラクで日本人学生が人質になってそのまま処刑されたことあったでしょ? はじめは派手に報道されたけど、その後はあっさりしすぎてたと思わない? ……とまぁ、そういうことよ」 摩耶とて、その実態、実数を把握しているわけではない。 施設の関係者であっても、明確に知らされる立場ではなかった。つまり秘匿されている。 「逆に無事日本に帰ってこれる人もいる。でも、だいたいは精神的にも肉体的にも酷く疲弊しててね。そういう人を一時的に受け入れて社会復帰できるように治療して……、そういう施設があるのよ。わたしはカウンセラーとして派遣されてた」 重度の差を別にするなら、PTSD、特に戦闘ストレス反応を基盤にする障害をかかえた者がほとんどだった。 対話すら難しい相手も少なくはなかった。 「あの子は、感情麻痺と栄養失調。症状としては軽い部類だった。社会復帰に問題の無いレベルのね……。そう、検査結果だけ見ればね」 |