S22応接室Z

 ほぼ健常者とされてもおかしくない彼女だったが、施設内でも少し特別視されていたのは、たぶんあの噂のせいだったのだ。
「いろいろな事を見てきたみたい。わたしには想像の域を出ないけど。それでもあの子が生き残れたのは、ある能力があったから。大怪我して、その能力に目覚めたって言ってた」
 背後から貫いた弾丸は、突き抜ける際、左肩の肉をえぐりとった。
「人を嗅ぎ分ける能力。その頃は、軍隊の中で軍規にそぐわない考えを持っている者、つまり反乱分子とかスパイを嗅ぎ分ける事ができるってんで重宝されたらしいけど、本質はそうじゃない」
 噂というより、事実のありえなさゆえに噂とされたのだろう。
 和平条約締結直後、ようやく機能を回復した日本大使館にふらりと現れた彼女は、軍服姿だった。
 染みひとつない、真っさらな上級将校のそれを纏って、まるで散歩途中に立ち寄った風であったという。

『こんにちは、橘吉巳さん。食事は口に合ってる?』
 施設で彼女と面談した時の第一声は、とても軽いものだった。
『ああ……、あなたは大丈夫だ』
 彼女の返答は、ひどく大人びた口調のものだった。
『ここは、臭いが酷いんだよ』

 上体を起こした摩耶は、膝に腕を置いて女子生徒を見つめた。
「人格に隠されている異常因子を見つけて、その特色を知る」
 さらに右手を持ち上げて、指差してみせる。
「たとえば神野恵さん、あなたみたいな人よ」
 神野恵の表情は少し強張って見えた。
 多重人格障害の治療法は、信頼関係の構築とともに、別人格が構成された起源をさぐり、それを埋めていく地道な作業だ。
 なによりもそれは時間を要する。一ヶ月や二ヶ月、場合によっては何年もかけて、じっくりと向き合うのだ。

「正直、あなたたち吉巳に手を焼いているんでしょう? わたしみたいにあっさり付いてきたりしないでしょ? たとえばわたしを人質に脅してみても、あの子ってば動じないでしょ。大事な思春期を平和にすごせなかったから、価値観とか少しズレているのよね」

 もう一つの方法は、別人格を否定し、立ち行かなくさせる事である。
 主人格で立ち行かなくなった状況を打開するために発現するのが別人格であれば、同様に別人格ですら対処できない状況に陥れば、別人格は後退する。
「おまけに喧嘩っぱやいし、変に場慣れしてるから強い」
 いうなれば、神野恵にとって吉巳は天敵といえるだろう。
 それを察知したのか分からないが、吉巳に着目したのは正しかった。だが、この場での一連のやりとりから、吉巳との接触に失敗している事は容易に推察できる。それがさらに彼女らを警戒させる。
 すべからく、吉巳の特性を知れば、神野恵は後退するだろう。

「なんだそれは、怪しい関西弁の外人コックじゃあるまいし」
 席を立ち、ふざけてみせる神野恵であったが、余裕の失せた表情はうかがい知れた。
 なによりも、席を立ったからといって、何をするわけでもない様子の神野恵は、すなわち無意識にこの場を否定したかったにすぎない。
「それはお互い様じゃない? 全身黒タイツの戦闘員とか侍らせてそうよ、あなたたち」
「それは、ちょっと分からないんだが?」
 妙な間が空いて、摩耶は軽く咳払いする。
 摩耶も席を立つ。否定を許さないという体現。
「まぁ、ともかく、神野恵」
 別人格の否定とそれにともなう崩壊は、いわばショック療法のようなものだ。
 主人格への回帰は保証されていない。場合によっては新たな別人格が発現することもありえる。

「いまや、アナタが浮き出ている事そのものが、弊害になる」
 だから単に追い詰めるのではなく、逃げ道を用意して、誘導する。
「このまま引っ込むのなら、ここで聞いた事は忘れてあげるわ」

 しかし――
「そうだね。このままというわけにはいかないよね」
 現れた5人目の声は、いたって冷静な口調だった。
 扉の開いた、応接室の入り口に立っている。
「人を頼る必要なんてなかったんだ。今この時を永遠にするのは容易い」
 室内の4人目の神野恵と摩耶。
 二人がその言葉の意図を察するのに、そう時間はかからなかった。
 神野恵は、だまって首肯すると入り口まで下がる。
 慌てたのは摩耶だった。
「ちょっと待って、そうまでして神野恵にこだわる必要ないでしょう」
 二人に駆け寄る摩耶だったが、しかし間に合うはずもなく、扉は閉ざされた。
 摩耶もそれは分かっていた事だった、それでも扉を叩いて叫ぶ。
「ていうかやめなさい、そんな事! 大切な事だっていうのは分かる、けどその決意を、大抵の人は乗り越えていくのよ!」
 そしてあるとき、我ながら馬鹿な想像をしたものだ、と自嘲しながらも懐かしく思うものなのだ。
 生まれて初めての妥協。現実と向き合う勇気。
 けれどその答えは冷めたものだった。
「我々は何も手を下さない。今までどおりにね。ただ、自らお願いするだけの事さ」
 扉越しに聞こえた女子生徒の声は、徐々に遠のいて聞こえなくなった。
 その扉に両手をついて、うなだれる。

 しくじった。
 確かに神野恵は追い詰められていた。アプローチに間違いはなかった。
「こんなの、想定できるわけないじゃない」
 相手が一個人であれば問題なかったのだろう。その場に居た神野恵が一人であったなら。
 だがしかし、これが集団人格というものなのか。個でありながら多であるとでもいうのか。
 無垢なる雛鳥という集団に属する彼女らは、神野恵として存在するにもかかわらず、固体としても神野恵であるということなのか。一固体が直面した問題に、別固体が異なる解答を出したのだ。
 それは最悪の回答だった。

 ずるり、と掛けた体重に耐えられなくなった両腕が、扉をずれ下がりそうになって、思考の底から我に返った。
 振り返って、誰も居なくなった応接室を見渡す。

 神野恵たち。

 芝居がかった、少し人を見下したような口調。髪型や容姿もわざと合わせたのだろう。それが本来の神野恵の意思であるのか、それは分からない。
 けれど今の摩耶には、それら全て彼女たちの、彼女たちなりの抵抗なのだと、思えてならない。
 突きつけられるのは、凡庸で退屈な現実。世界という物語の中で、自分は主人公ではないと気づく。
 それらをともかく否定したい、受け入れたくない。大人たちはそれを甘さと笑うだろう。けれど誰しも、同じ思いを経験しているはずだ。

 廊下で話した吉巳の級友、学園の怪談を話してくれた生徒たち。
 誰もが経験することなのだ。神野恵たちも、同じ生徒なのだ。それなのに、彼女たちだけが――

 室内を見回してすぐに目に付いたのが、神野恵が持ち込んで、そのままになっているノートパソコンだった。
 ともかくソファーに座って、パソコンを操作する。
「だって、ついさっきまで一緒に話をしていた子たちなんだよ」




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