S27学園祭

 パソコンのディスプレイに表示されていたメーラーが終了される。
 操作を終えてマウスから離れた手は、摩耶ではなく吉巳の手だった。
 吉巳の背後に、呆然と見守る摩耶の姿があった。おそるおそる口を開く。
「……あの、吉巳さん?」

 タイマーを止めた摩耶が、窓越しにグラウンドと校舎の屋上の様子を確認していた時だった。
 グラウンドの騒ぎはそのままだが、屋上の女子生徒に飛び降りようという気配はない。
 とりあえず安堵。
 そこへ妙な出で立ちの吉巳が、級友の佐古を伴って現れた。ざっと周囲を見回して、おもむろにパソコンの前まで歩み寄ると、キーボードを叩きだしたのだった。

 吉巳は背を向けたまま答えた。
「結論から言っちゃうと、占星術研、『無垢なる雛鳥』って言うらしいんだけど、こいつらは――」
 振り返った吉巳が続ける。
「こいつらは、臭わない」
 サイドテーブルに、後ろ手に手を付いた吉巳はさらに続けた。

「神野恵なんて集団人格は存在しないのさ。
 最初は、援交がバレたときの言い訳でしかなかったんじゃないかな、推測でしかないけれど。ま、オカルト好きが言い出しそうなものだよね。ただ、この学園の場合、初代学園長とその孫にまつわる話があったから、それは安易に否定できなかった」

『双子の東門』
『頭巾の生徒』
『あれは儀式だった、自分を定着させるための儀式だ』

「で、思いのほかうまくいったものだから、彼女らは味を占めた。それこそ好き放題にね。
 いや、これは正直驚いたよ。学内はおろか街のチンピラまで掌握していたんだから。そういう才能はあったんだろうね。
 とはいえ、一学生がこんな思い切った事ができたのも、ちゃんと言い訳が用意されていたからだ。
 なにしろ失敗しても問題ない。全部、神野恵のせいにすればいいんだから」

 言いながら吉巳は顔を上げて、摩耶と目を合わせる。

「ただ今回はマズかった。心を専門にするセンセが来たからね。拉致ってもみたけれど、さすがの神野恵もうまくいくとは考えてなかったろう」

 ブレザーの内ポケットをゴソゴソしながら、さらに吉巳は続ける。

「もう悪戯はここまでだと観念した。
 観念はしたけど、別にどうということはない。抜け道はちゃんと用意してあるんだから。
 ちょっと気が病んでる振りをして投身自殺のマネでもやっておいて、あとは神野恵に押し付ければいい。
 ケータイの着信で後催眠のマネごとまでしてね。
 最初は本物だと思った。けど、自分の意思とは無関係に植えつけられた信念が、やっぱり臭わなかった」

 ポケットから摘むように取り出したのは携帯電話だった。目の前でプラプラさせる。
『元々が共通意識である我々にとって、他者の意識をくみ上げるのは、実に簡単なことなんだよ』
『ホラ、着メロってあるよね。発信者によって着信音が設定できる機能』

「センセを拉致った本当の目的はこれだったといっていい。神野恵の存在をほのめかした上で、自殺を阻止させる。センセは乗せられてたんだよ」

『ヤバー、こいつイッちゃってるよ……。あるいは、多重人格障害、かな?』
『そう、今在るのは、神野恵と占星術研の彼女らの意識が織り交ぜられている状態だからね』
『いまや、アナタが浮き出ている事そのものが、弊害になる』
 無意識に額に手をあてた摩耶は、「うわぁ〜」と小さく唸った。にわかに信じられないが、否定する要素が見当たらない。
 それどころか、逆に納得できる事もある。
 神野恵を副人格としたとき、その行動は、あまりにも論理的で一切破綻していなかった。
 吉巳の素性を調べた過程がそうだった。学籍簿を調達し、橘家に連絡し、徹頭徹尾、理詰めで思考している。
 また、あえて自殺をほのめかし、摩耶の見える所でそれを行い、おまけにノートパソコンを置いていった。他の資料は全て持ち帰ったというのに。

「すべての引き金は、初代学園長の孫が事故死したっていう噂話に端を発した怪談さ。
 占星術研が言い訳につかったコレは、学内じゃ知れた噂話だった。未治に調べさせたらすぐにその内容は知れた。
 といっても、初代神野学園長の孫に神野恵は居なかったというワケじゃない。確認もとれなかったしね。
 まぁ、だからこんな怪談になったんだろうけどね」

 いつしか吉巳の視線は、摩耶の隣に立つ佐古に向いていた。
 吉巳に頼まれてここまで連れてきたものの、少し所在なげな様子だ。

「逆に神野恵の話が7年前から囁かれだしたというのが、ちょっと引っかかっていたんだ。
 これも未治から聞いたけど、現学園長が就任した時期と符合する」

 手にした携帯電話をパソコンの横に置いた吉巳は、サイドテーブルから身体を離した。

「そう、戦前の神野恵は見つからなかったけど、現在には居たんだ」

 さらに、一歩前に出る。

「神野恵子。今の学園長の娘さ」
 摩耶の目が見開かれる。あの時、応接室で神野学園長は言っていた。
『では、久川先生……この娘たちをよろしく』
 気が付けば、吉巳が目の前に立っていた。少し顔色が悪く見えるのは、室内が暗いせいだろうか。その口元が皮肉めいた笑みで歪んだ。

「佐古さん、お母さんは元気かい?」
 吉巳の視線の先にいるのは、たしか昨日廊下で出会った吉巳の級友だったはずだ。
 明るく社交的な印象の生徒だったと記憶している。
 けれど、今の彼女は違う。吉巳を見つめ返す瞳は鋭く、けれど口元は奇妙な笑みで歪んでいる。
 なぜか神野恵と印象が重なった。いや、それも当然だ。
 目の前の女子生徒は、眉の上で切りそろえた前髪に、化粧っ気のない顔、後ろ髪は肩口で切りそろえられて……。

「やっぱりかっこいいね久川さん、その制服も似合ってるわ。あたしのことも調べたの? けどなんであたしだって?」
「今は佐古さんだけが臭うからだよ」
 吉巳の返答に、摩耶ははっとする。
「あ、直ったの?」

 不意に一歩下がった吉巳。
 ふらついたようにも見えたが杞憂だったようだ。摩耶に向き直った表情が穏やかなものだったからだ。

「センセと別れた後、ちょっとトラブルがあってね、学園祭って空気じゃなくなった。それが原因か分からないけど、その後からマシになっていったんだ。今は復調してる」
 吉巳はそう言って、大きく欠伸する。
 黙って周囲を見回して、今度は落胆した様子で溜息をついた。
「なんにも無い部屋だなぁ、ここは」
 愚痴りつつ床に腰を下ろすと、サイドテーブルに背中を預けた。

「まぁ、これ以上は詮索しないよ。学園長と娘の話がこんな風に化けた理由なんてね。
 それよりどうだい、佐古さん、いや佐古センパイだな。他人を手のひらの上で操るのは楽しかったかい?」

 立膝をついて顎をのせた吉巳は、佐古を見上げていた。
 またもや皮肉めいた笑み。
 だが、返す佐古の口調は悪びれた風でもなく、あっけらかんとしたものだった。

「あたしも詳しく知ってるわけじゃないんだけど、絶縁したとか言ってたよ。ママからは、イヤってほど聞かされてたのよね、お爺ちゃんの恨み事みたいな?
 だから学園に入ったときは驚いたもんだったよ。ていうか笑っちゃったわ。ママのことに触れられたくないもんだからって、神野恵なんかが作り上げられちゃうんだから」

 部屋の中央を横断するように敷かれた赤い絨毯に立った佐古は、奥の祭壇らしき方向に顔を向ける。

「人の気持ちってすごいよね。
 安心できる理由さえ用意してやれば、なんだってやるんだから。たとえ虚飾に塗り固められた理由だったとしても関係ない。
 占星術研を『無垢なる雛鳥』に化けさせたときなんか面白かった。
 面白かったけど、退屈だったりもしたのよねー。
 とりあえずホラ、あたしは3年生のくせに2年生であり続けるって設定の犠牲者だったから、磐石だったのよねー。守りが堅すぎるから逆につまんなくなるのよ」

「あー、ちょっと待って」
 摩耶が思わず口を挟む。
「つまり、あなたが神野恵なの?」

「まさか。
 あたしは、背中を押しただけ。あのつまらないバイトを持ち込んできた時、神野恵の使い方を教えただけ。まぁたしかに、親の名前を勝手に使われたみたいで良い気はしなかった。だから、学園長へのあてつけのつもりだった。
 でもね、久川さんは知らないだろうけど、学園長って呆けちゃってたんだよね」
 そう言って振り返った佐古は、吉巳を見て思わず苦笑を漏らした。
「て、もう寝ちゃってるし」
 サイドテーブルに背を預けていた吉巳は、いつのまにか手足をだらりと放り出し、目を閉じていた。
「お姉さんが無事だったら、他はどうでもいいってか。まぁ、一晩中走り回ってたみたいだしね」
 ゆっくり胸を上下させる吉巳の寝顔は穏やかで、少し微笑んでいるようにも見えた。
「では、久川先生、私はこの辺で失礼しますね」
 佐古はきびすを返して出入り口へ向かう。
 制止する理由はなかった。
 一連の騒動の原因が彼女であるのは間違いないが、しかし、彼女が何か手を下したわけではない。
「そんなことより、妹さん、怪我しているみたいなので、診てあげてください」
 摩耶の思考を読み取ったように言うと廊下に出る。
 そこには、一人の男子生徒の姿があった。

「やぁ、瀬野君」
 瀬野は目礼を返す。
 佐古はそのまま廊下を歩き出して、瀬野は黙って付き従う。
「どうかした? 何も言わないんだね?」
 やはり瀬野は何も言わない。対する佐古は、それが楽しくて仕方ない様で続ける。
「じゃあ、私が言ってあげるとしよう。神野恵は今日で終わりだ、『無垢なる雛鳥』を裏で操る黒幕、という役回りもね」
 ようやく瀬野は静かに口を開いた。
「今回は、この辺が潮時でしょう」
 吹き出すような笑いは佐古だった。
 振り向いて、瀬野を見上げた。
「いい返事だ」
 佐古の身長より上背のある瀬野であるから、佐古が見上げるのは自然な事だ。
 しかし、その言動は物理的な立ち位置を逆転させていた。
「そのとおり、次の舞台は大学だ。必然、この学園より人脈も資金も潤沢になる」
 佐古は不敵な笑みを浮かべて続ける。
「楽しくなるといいね」
 瀬野は黙って片膝を着いた。
 しばし頭を下げ、充分に間を溜めたた後、恭しく顔を上げると、
「はい、神野恵様」
 などと言ってみせた。