---- 夕暮れ
 首筋まで走った悪寒が拡散して全身に鳥肌が立つ。

 恐れ。

 紗々川はここが遺体発見現場であるからだ、と思っていた。

 紗々川栄子と吾妻のぞみは閑静な住宅街にある小さな公園にいる。
 3月下旬に、市内公立高校に通う野田敬子という少女の遺体が発見された場所である。

「本当に大丈夫?」
 吾妻が心配そうに声を掛けてくる。
 3箇所の遺体発見現場をまわって、予感は確信に変わっていた。
 新聞記事は、人通りのない公園や団地の裏などに遺体が放置されている事を共通点として取り上げていたが、それだけではなかったのだ。
 桜の木。
 第2、第3の現場は未だ警察が調査中だったので、本当の発見現場というものを見ることはかなわなかったが、警察や報道関係者、野次馬たちに取り囲まれるように桜の木は確かにあった。
 その度に紗々川は立ちすくんでしまったのだ。

 艶やかな花とは対照的に節くれ立った枝が不気味に湾曲してのたくっている。特に樹齢を重ねたものはそうだ。
 秋冬などは奇怪な姿がさらけだされ、夕暮れ時に落とされる影は不気味以外のなにものでもない。
 あのようなモノを愛でる気には到底なれない。
 紗々川が桜の木に対する明確な感想を持ったのは最近の事で、以前は得体の知れない恐怖にただ脅えているだけだった。
 小学生の時の体験が原因なのだが、当時の記憶を紗々川は鮮明に覚えていない。こういったものもトラウマというのだろうか。

「もう、やめようか?」
 吾妻が再び話しかけてくる。
「ううん、大丈夫。これで最後だもの」
 気丈に微笑んでみせ、一歩踏み出す。
「それに、まだ何も解っていないし」

 紗々川がこの事件に興味を持ったのは例の週刊誌が学内や寮に出回ってしばらくしてからの事だ。クラスメートとの交流が疎遠な彼女は、自然と学内の流行にも疎くなる。
 女子高校生がひと月の内に3人も殺された。遺体発見現場はよく似た場所で、殺害手口に関しては酷似している。
 いわゆる連続殺人事件。珍しくもないゴシップだ。

 元々、そういった類のものには興味がない方であるし、今回に限っては、被害者となった同窓生をあれこれ詮索する輩に不快を感じてもいた。
 にもかかわらず、紗々川が妙なトラウマに恐怖しつつも現場に足を運ぶ理由は全く別のところにあった。

 欠落感。

 雑誌にも新聞にも、事件の概要から詳細まで書き出されているのだが、決定的に欠けている要素がある。
 紗々川はそう感じたのだ。
 根拠など無く、あくまで紗々川個人の推測でしかないのだが、本人には確信があった。
 逆に言えば、事件そのものに関わろうとしているわけでも、犯人をつきとめようと思っているわけでもないのだ。とにかく何が欠落しているのか、紗々川は気になって仕方がなかった。

「じゃあ、現場を見に行こうよ」
 言い出したのは吾妻だった。なりゆき上、紗々川が新聞記事を調べる事になったあらましを説明した後の事である。
 普通の女子高生が血なまぐさい遺体発見現場などに行こうと思うだろうか。どう見ても、吾妻は他のクラスメートと同じく「お嬢様」である。紗々川は正直驚いた。
「百聞は一見にしかず、って言うでしょ?」
 くったくない笑顔で言う吾妻。
 ただの世間知らずな考えだったのかもしれない。でも、紗々川は彼女に好感をおぼえた。

 吾妻は心配そうに紗々川のななめ後ろに付き従っている。
 この公園に至るまでに吾妻は何度か手を貸そうとしたが、紗々川は丁寧に断っていた。
 人柄に好感は持てるが、趣味はまた別の話なのである。

 紗々川は首筋に未だ残る悪寒を手でさすっていさめ、雑誌や新聞から得た情報を思い出して意識を集中する。

 警察は犯人が同一人物であるとの正式見解を出していない。あくまでマスコミが連続殺人であると吹聴しているだけなのが現状である。
 連続殺人であるとする理由は3点あり、全て現場の状況に集約されていた。

 紗々川は改めて周囲を見回す。桜の木は見ないようにしながら。
 夕暮れがせまっているせいか、目に映るものすべてが朱に染まっていた。
 ブランコ、滑り台、砂場、平日のこの時間帯であるにもかかわらず、公園には女子高生二人しかいない。
 二人目は郊外の市民公園、三人目は高台にあるマンションの裏手、他の現場も似た雰囲気だった。――街中の死角。
 マスコミは共通点の一つとしているが、いまひとつ説得力に欠ける。殺人なぞ、そういった所で行われるものだろう。
 では、桜の木も同じ扱いなのではないか。紗々川にとって特別な存在であっても、公園には必ず植えられているし、市の緑化運動も盛んだ。

 もう一つは、被害者が15〜17才の女性であること。
 所持品は盗まれておらず、暴行を受けた痕跡もない。
 一部の雑誌は、抵抗した形跡もないと報じているが、情報源が警察関係者とされているだけで、事実かどうかは疑わしい。
 どちらにせよ、殺害が目的であることに変わりはない。

 最後の共通点は殺害手口である。
 警察が同一人物による犯行である事を前提に非公式捜査していると、マスコミが報じている根拠でもある。
 紗々川は遺体が発見された本当の場所を探す。公園はそれなりの広さがあるものだが、それでもすぐに見つかった。

 身体が震える。
 紗々川は桜の木に向かった。
 被害者は3人とも、鋭利な刃物か何かで喉を切り裂かれていた。死因は失血死だ。

 夕焼けが周囲を真っ赤に染めても、それは容易にわかった。
 同時に紗々川は、欠落感の原因が解った。

 血だ。

 被害者が放置されていたと思われる場所は、桜の木の袂だった。3メートル四方の地面が限りなく黒に近い赤で染まっている。

 幹にも、痕跡はあった。
 樹皮に染み込んだ血液が変色してできた黒い跡が、紗々川の腰あたりの高さから下へ広がっている。
 座り込んだ人影に見える。
 紗々川は目眩をおぼえた。口の中に鉄の味がひろがる。
 ふるえが止まらない。たまらず後ずさりする。

「何かわかった?」
 慌てて振り返った。
 遠くに吾妻の姿がある。
 背にした夕日が彼女の表情に影を落とし、影は紗々川の足下まで伸びていた。
 まるで吾妻でないような、否、人でもないような気がする。
 紗々川は、幻想にとりこまれた気がした。真っ赤で冷たい幻想。

 吾妻のように見える少女は瞳だけで語る。
「どう?」
 これは夢じゃない。
 紗々川は心の中で何度もつぶやいた。
 しかし、喉は乾くばかりで、逆に口の中にひろがる鉄の味は、はっきりとしてくる。
「ち、が…」
 思考もままならぬ中、言葉を絞り出す。
「血?」
 吾妻であっただろう少女が繰り返す。
「そう、血ね。ひと月経ったのにまだ残ってるね。すごい量だったんでしょうね」

「くすくす」

「紗々川さん、私ね、生き物の根元は血液だと思うの」
 少女の影が揺れる。髪が燃えるように紅い。

「身体なんて肉と骨だけでしょう?それだけで生きることなど、かなわない」
 揺れた影が少しずつ近づいてくる。
 紗々川は五感がゆっくりと遠ざかり、入れ替わりに埋もれていた記憶がおぼろげになってくるのを、意識の縁で呆然と感じていた。

「半年前、事故で入院したとき、私、死ぬところだったらしいの。…血が足りないって、病院の手違いもあったらしいけどね」
 かすんでいた記憶が徐々に鮮明になってゆく。

 下校途中のグラウンドは、今の公園と同じく真っ赤な世界だった。
 小学生の時だ。
 何年生だったかは思い出せない。

「そのとき、確信したわ。血と命は同義だって。そう思わない?」

 桜が美しいのは根元に少女の死体が埋められているから。

 紗々川は藤棚の奥にある桜の木を見上げていた。
 どれほどの年を重ねたかはわからない。夕日に照らされても自身の色を失うことなく輝いていたのを覚えている。小学生の紗々川は、純粋に綺麗だと感じていた。

「でも、血は肉体と切り離すことはできない。現にほら、血は外に出ると醜く固まってしまうでしょう」
 影の少女は少し手をのばせば紗々川に届くところにまで来ていた。
 紗々川の背後に広がる血溜まり跡に視線を送る。

「あれは死んでいるのよ」
 気が付けばグラウンドを飛び出していた。
 走る。
 泣きじゃくりながら、母を呼ぶ。
 いつもの通学路を走っていたようだが、涙でぼやけてはっきりとしない。直前の記憶はもっとはっきりしなかった。
 無我夢中で走る。
 いや、逃げていたのだ。
 桜の木の袂に、なにかがいた。はっきりとわからない。
 解っているのは、それがとても恐ろしかったという事だけだ。
 以来、紗々川は桜の木が嫌いになった。

 視界はぼやけていたが、目の前にいるのは吾妻であることはわかった。
 知らない間に膝を折っていた紗々川は彼女に支えられていた。
 本物の吾妻だ。彼女のゆっくりした吐息が聞こえる。

「あなたの話は良く聞くわ」
 さらに顔を近づける吾妻にどきりとする。
 あまりにも自然な笑みと、からみつくような眼差しに紗々川は彼女を拒むことができないでいた。
「どんな子だろうって思ってた。意志をしっかり持っていて、自分に厳しい子なんだろうな、って勝手に想像していたけど」
 白い手が紗々川の頬に触れる。
 至極自然な動作だったので、否、紗々川自身が平素の自分ではなかったせいかもしれないが、強張ることすら忘れて、受け入れてしまう。
「思ったとおりの子だったから、嬉しかった。でも、少し心配…」
 頬をつたう涙を優しくぬぐう。
 柔らかな物腰、憂いを含んだ悲しげな笑み、甘い香り、女子校に居ながら、紗々川は初めて女性というものに触れた気がした。
 鼓動が高鳴っていることに気づく。
「自分に厳しいせいで、自分の価値を落としている。周囲から自分を守ることに専念しすぎて、自分の魅力を見つめ直す時がないのね」
 いつのまにか、吾妻から伝わってくるぬくもりは頬に添えられた手だけでなくなっていた。
「あなたは、自分が思っている以上に綺麗だということに、気づいていないわ」
 紗々川を捕らえて放さなかった瞳がゆっくりと閉じられ、さらに顔が近づく。
 鼻先が触れ合う。

「あなたの瞳は何故黒いの?」

「ち、ちょっと、まって」
 両手をわたわたと振りながら、2、3歩あとずさった紗々川に、吾妻は笑ってみせる。
「わ、私にはそういう趣味はないの」
 困ったようで、それでもはっきりと言う紗々川に、吾妻はいたずらがばれた子供のような笑みをうかべた。
「あら、それは残念ね」


 
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