---- 夜 弐
 空気が生ぬるい。

 フローリングの廊下を抜けて寮を出た紗々川はそう思った。
 外と内の温度が同じだ。でも空気の流れが感じとれるほど周囲は寂としている。
 裏手にまわり、小高い丘を登る。細長い月は思いのほか明るく、丘の頂上にある煉瓦造りの塔が紗々川の足下に蒼い影を落とす。

 自分の行動に疑問がないわけではない。
 これは確認だ。自分の推測が間違っていることの確認だ。
 自分に言い聞かせる。
 あの子の普通ではない言動も、犯行現場という空気のせいで、異常だと感じただけに違いない。
 それに、あの時の紗々川の精神状態は普通ではなかった。
 桜の木に対する恐怖のせいだ。
 落ち着いて考えてみると、異常なのは自分の方ではないのか。たかが木一本に心を乱すなぞ、普通ではない。
 そもそも、連続殺人なんて、サイコパスや精神異常者の仕業に決まっている。血をまき散らして遺体を曝しものにするなぞ、殺人を楽しんでいるとしか思えない。
 そうに決まっている。彼女は関係ない。

 視界が唐突に開けた。
 戦前に建てられたと言われる煉瓦造りの塔は、老朽化を理由に放置された今でも、教会独特の澄んだ空気を周囲に拡散させている。

 無関係でなければならない。さもないと。

 青白い月明かりが、世界をモノクロームに塗り込める中、ゆるりゆるりと花びらを散らす一本の八重桜だけが色彩を放っていた。その華やかさは、周囲と釣り合わず、禍々しさすら感じさせる。
 その袂。

 さもないと、自分も部外者ではなくなる。

 視界が、湾曲した。

 気が付けば、ベッドの上だった。
 奥歯がかみあわず、全身の震えは止まる気配がない。
 それでも手だけは、シーツをしっかりとつかんでいた。

 不用意だったのは確かだ。物陰に隠れることくらいは考えついてもよかっただろう。
 丘を登り切った紗々川は、ソレを見つけた。
 しかし、明瞭におぼえていない。今しがたの出来事なのに、ソレと目が合ったにもかかわらず、覚えていない。
 確かに見たはずである。
 ならば、脳が思い出すことを拒絶しているのだろうか。
 これではまるで。
 あの時と同じではないか。

 その後の記憶が意味もなく浮かんでくる。
 転がるように丘を駆け下りていく紗々川。
 涙で視界がぼやけている。
 泣きじゃくる。だが、今の紗々川には助けを求められる人はいなかった。

 恐怖に苛まれながら、「自分の推測が中っていた」と思ったのを思い出す。
 ソレは人の命を奪うことが目的ではなかった。遺体の足下に広がる血の海は、殺人を誇示するものではなく、失われたものを隠すために行われた工作だったのだ。

 扉を開く音がする。
 隣か、否、もう少し遠い気がする。
 しばらくして、扉が閉じられる音が聞こえた。鍵を閉める音がする。
 足音。
 そして、鍵音と共に扉が開かれる。

 今まで何故気が付かなかったのだろう。何かを確認しているような足音が、徐々に近づいてきている。
 ソレが追ってきたのか。
 隣の扉が閉められる音がする。
 この階には紗々川以外誰もいない。
 鍵音がする。
 自分は部屋の鍵を締めただろうか。
 早鐘のように鼓動が高まり、大量の血液が頭に流れ込んでくる。吐き気がする。

 背後で扉が開かれた。
 部屋の空気が流れ出し、替わりに冷気が流れ込んでくる。
 人の気配がする。本当にヒトだろうか。

 ぺたり

 液体のようなものが頬に落ちて、唇をつたい口腔に入り込む。
 鉄の味がした。
 違う、これは、血の味だ。
 身体の震えを必死で押さえる。そうしなければ、理性が無くなる気がしたからだ。
 目を固く閉じ、替わりに敏感になっている耳が、吐息をとらえた。
 緩慢な息づかいが、ゆっくり耳元に近づいてくる。
 女性のものであっただろう、唸りにも似た低い声が

「おまえか」

 と言った。


 
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