---- 想起 ぺたり どれほど時間が過ぎたかわからない。 再び頬に、ぬるりとした液体が落ちたのをきっかけに、ソレの気配が離れた。 生まれて初めて泡立つほどに鋭敏になった感覚が、ソレが遠のいていくのを明確に感じる。 扉の音が合図のように鳴り響いて、気配が完全に消えた。 ぷつりと何かが途切れた。心も身体も急速に弛緩して、震えが収まる。 ゆっくりと上体を起こし、軽いため息をついて首をめぐらせる。 途端に、息が詰まる。 傷跡のような月が照らす飾り気のない木製の扉の横に、ソレは居た。 髪の紅さも解らない。肌の白さも解らない。 異様な輝きを宿した瞳が紗々川を見つめていた。 「やっぱり、貴女だったのね」 吾妻のぞみの声でソレは言うと、口元の片方をつりあげて、笑った。 紗々川が射すくめられて動けないのを知ってか、ソレはゆっくりと近づく。 ソレが揺れるたびに、口元を無造作に濡らした黒い液体が幾筋もの糸を引いて床に落ちる。 一瞬、顔が月明かりに照らされた。 死人のような白い顔半分を生々しい血で濡らしたソレは壊れた笑みを浮かべている。 紗々川の悲鳴が喉元で凍り付いて、脳裏に教会跡の光景が閃いた。 舞い散る桜の向こうに昼間のショートカットの少女が居た。肩も腕も、脚にも緊張はなく、だらりとしていて、すでに紅く染まった身体を、からめとるように抱く吾妻の姿があった。 首筋に埋めていた顔を、ゆっくりもたげる。 「わたし、小さい時、貴女を見たの」 心臓が一度だけ、大きく脈動した。 先ほどの恐怖によるものとは明らかに違う身体の反応に紗々川は動揺した。しかし、すぐに治まる。 まるで、一度だけ押し出された血液が隅々に行き渡り、身体の萎縮も心の波紋も、なにもかも正常に戻してしまったような、澄んだ気持ちになった。 そして、紗々川は全てを思い出した。 「あの時は良く解らなかった。ただ、恐ろしかった」 『そう、私も怖かった』 紗々川は声に出さずに呟いていた。 「でも、事故にあって、ママが死んで、ようやく解ったの」 風はなく、校庭にまかれた打ち水が夕暮れ時の今になって、むわりとした空気を漂わせる。 藤棚の向こうに居る朧げな影。 『それは少女だった』 「雪のように白い着物」 『それよりも白い肌』 「栗色の髪。そして」 琥珀色の瞳。 ソレはもう紗々川の目の前にいて、言葉を続けた。 「この世の者じゃない。…そう、あれは吸血鬼だったんだ、って」 「くすくす」 いつのまにか紗々川は床に足をおろしていた。 口元だけでほほえむと、頬を濡らす血をひとすくいだけ舐めとる。 「くすくす」 また笑って、ゆっくり顔を上げると、ソレを見つめ返した。 琥珀色の瞳で。 「おひさしぶり、っていうのかな?わたしはよくおぼえていないけど」 吾妻であったソレは一瞬崩れそうになって、「あぁ」と言った。魂が抜け落ちそうな弱々しい声ではあったけれど、明らかに歓喜の声だった。 壊れた笑みはどこかへ消えていた。 神々しげに琥珀色の瞳を見つめると、歓喜に震える手で、まっすぐに立つ紗々川に触れようとする。 刹那、紗々川であっただろう少女の眉間に鋭い亀裂が刻まれ、瞳が紅く燃えた。 鈍い音とともに、ソレはひしゃげて見えた。その場に崩れ落ちる。 内臓を掻き混ぜられた感覚が嘔吐に変わり、自分の血を吐き出す。 歓喜も消えていた。 どうにか顔を上げると、困惑の表情で、紗々川を見上げる。 「人間って、いつから現世の主人を気取るようになったのかしら」 言いながら、自分の両肩を愛おしげに抱く。 「栄子は自分のことを部外者だと思っていたようだけど、とっくに役回りは決まっていたんだね」 「ママが言うの」 吾妻は告解するように、頭を下げて呟いていた。 「病院を出たとき、もうママは私と一緒だった。それからよ」 「ちがほしいって、…ママのいのちが、血が欲しいって、血が欲しい、血が欲しい、血が欲しい、血が欲しい、血が欲しい、チがホしい、チガホシイって」 床に着いた腕を震わせ、子供のように繰り返す。 「だから与えた。…ひとり、ふたり、みんないい子だった」 ソレは顔を上げる。紗々川は冷たい目を向けていた。 「でも、おさまらないの。この喉の渇きが。もう、耐えられない…だから」 「私の血を吸って」 告白から嘆願に変わっていた。 それでも紗々川は見つめ続けると、膝を曲げ、鼻先が触れるほどソレに顔を近づけた。 「できない相談ね。この子のこと、気に入っているもの」 立ち上がって、大窓に足を向ける。 「それに、私は吸血鬼なんかじゃ、ないわ」 紗々川の一言にソレは激昂した。 「嘘よ!」 しかし、琥珀色の瞳に見つめられ、すぐに声のトーンは下がった。 「見たもの、あの時。…あなたが、紗々川さんの首筋に口づけて、そのまま…消えてしまうのを」 紗々川であった少女は再び笑う。冷笑だ。 「なにも知らないのね。鬼は人でしか成れないものなのよ」 月明かりを背に、ゆっくりと、子供に話すように、言葉を続けた。 「気づいてた?あなたはもう、吸血鬼なのよ」 吾妻であった少女の中でなにかが弾けた。 涙が溢れ出して、今では自分のとも、昼間の少女のとも区別がつかない血溜りにパタパタと落ちる。 「素晴らしい業だわ。そこに至れる人間はそんなに居ないんじゃないかな。貴女、このままでも充分やっていけるわ」 琥珀色の瞳に虚ろな光が宿る。 「貴女に選ばさせてあげる。でも、選択肢は2つ。一つはこのまま鬼であり続けること。もう一つは…」 |
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